今回は奈良時代の農民の暮らしについて、日本の歴史を紹介します。

当時の日本では、全人口の内ほとんどが農民でした。
町らしい賑やかなところは、奈良の都しかなく、そこに住む貴族・僧・商人・職人は農民に比べ、ごくわずかでした。

条里制は、農民に口分田を与えるための基準となるもので、土地の区分の仕方です。
土地は、一条・二条というたての区分と、一里・二里という横の区分とで、一辺が約522メートルの正方形(一里という)を幾つかつくります。

その正方形を、縦横それぞれ約87メートルずつに六等分します。
87メートル四方の土地を一坪と呼び、一坪は一町歩(いまの約0.76へクタール) の面積があります。

一里は、約27.25へタタールで、36坪あります。
条里制によって、村や田の位置は正確に決められるようになりました。

現在残っている一番古い条里の地図(田図)は、香川県の弘福寺の領地を測った地図で、735年(天平七年)につくられたものです。

条里制は、たぶん七世紀の末頃には、始まっていたでしょう。
条里制の地図によって、口分田は六年目ごとに、人々にわけあたえられる決まりでした。

税も、この制度と、六年に一度つくられる戸籍と、毎年つくられる計帳によって、取立てられました。
八世紀になると、農民で貧乏に苦しむ者が増えてきました。
当時の米の収穫高は、どれくらいあったのでしよう。

もっともよく肥えた上田一段(7.6アール)から約150キロ、中田から約210キロ、下田から約90キロという有様です。

律令によって男子ひとりニ段の割り当てをすると、上田で300キロの収穫です。
しかし、全てが上田ではありません。中田・下田が少なくありませんでした。

人は今でも一年に約150キロは食べますから、男二段・女一段210歩では、取っても足りなかったでしよう。

しかもその中から、租税と来年の種もみは、とっておかなければなりません。
税の一種で、とくに農民を苦しめたのに雑徭(ぞうよう)があります。

雑徭というのは、弁当は自分もちで60日以内、その地方の国司の命令で力仕事をするものです。

故郷を遠く離れたところで、土木工事をやらされたり、都へ庸や調として、重い布を運んだりするのは、
農民にとって、大変辛い仕事でした。

そのほか、農民のつとめとして仕丁役と兵役があります。
仕丁役は、50戸ごとに2人が出て、中央の役所で働くものです。

兵役は、兵士として、遠いエゾ地や九州の大宰府や皇居の守りにつくものです。
貧しい農民たちは、一家の働き手を取られてしまって、たいへん困りました。

租税の中で農民を苦しめた、もう一つの大きな税は、出挙(すいこ)です。

秋に取り入れた米を春までに食べてしまい、種もみを蓄えることのできない農民が少なくありませんでした。

このような農民に、国司が種もみを貸与え、稲の取り入れが終わってから、五割の利子をとって返させました。

これを出挙といいます。出挙の制度は、もともと貧しい農民を救うために、つくられたものです。
745年(天平一七年)からは、国司に出挙の利子が一部あたえられることになりました。
そこで、国司は、無理に種もみを貸付、収入を増やそうとしました。

後には、出挙は国にとって、租庸調よりも大切な財源となりましたが、農民の生活は、一層苦しくなりました。

この頃の農業では、日照りやや大雨が続いたり、イナゴの群れが襲ってきたりすると、たちまち、飢饉になり、飢え死にする人も、たくさんいました。

流行病も非常な勢いで広まりました。
政府は神や仏に祈ったり、飢えた人々に米を与えたりしましたが、飢饉で困った農民の中には、子どもを売る者さえありました。

重い租税が辛いため、故郷を逃げだして、他の土地へ移り住む者もかなり出る有様でした。
この時に農民たちが使った農具として、くわ・すき・鎌・うす・きねなどがありました。

貴族や大きな寺の田では、これらの農具が用意されていて、働きにくる農民たちに、貸してやりました。
鉄でつくった農具は、奈良時代のはじめは、まだ貴重品でしたが、終わり頃になると、新しい農具が市場に出回るようになりました。

くわ一丁がお金で45文、物々交換だと米7~8升で取り替えられました。
しかし、鉄のくわは荒れ地を開いたり、畑を耕したりするのに使うだけで、沼地を開いた田では、木のすきが使われていました。

田植えは、一部で始められていましたが、多くは、直播きで、肥料は草が主に使われていました。
実った稲は、鉄鎌で刈り取りました。

弥生時代以来、穂だけを刈り取る方法が行われていましたが、この頃には今のように根元から刈る方法が行われていたようです。

刈り取った穂は倉庫へばらづみし、また、脱穀は、たてぎねとうすを使っていたようです。

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