今回は奈良時代の防人について、日本の歴史を紹介します。


奈良の都は華やかな町でしたが、都から離れた地方は大抵、住む人も少なく文化の低い、寂しいところでした。

九州の大宰府は、九州全体を治める、大宰帥という身分の高い役人のいるところで、天下の一都会と言われたほどです。

しかし、この大宰府も都から見ればひな(田舎)に過ぎませんでした。
大宰府の役人として、朝廷から命じられた人は、身分を提げられたり、島流しにされたように情なく思いました。

大宰府を始めとして、地方へ下った役人はみんな、都を恋しがりました。
九州の南の端(鹿児島県)にいたハヤトは、大化の改新までには大体、降伏していました。

しかし、その後もたびたび乱をおこし、720年(養老4年)には大きな乱をおこしましたが、平定されています。

ハヤトのいた地方は、730年(天平2年)ごろになっても、まだ班田収授法がおこなわれていませんでした。
そこまで朝廷の力が及ばなかったことがわかります。

また、アマミ(奄美大皀一)・タネ(種子島)、ヤク(屋久島)・トカラ(宝島)など、今の南西諸島方面の島人が、貢物をもってきました。

しかし朝廷は、これらの土地を治めることに、あまり熱心ではありませんでした。
エゾは、斉明天皇の時代に平定されてから、暫く大人しくしていました。

奈良時代の後半になると、エゾは、しばしば乱をおこし、朝廷を悩ませました。
朝廷は関東地方や越後国(新潟県)あたりから、東北地方へ多くの農民をうつり住まわせ、開拓させたり、エゾと戦わせたりしました。

関東地方から遠江国(静岡県の一部)あたりまでを東国、またはあずまと呼びました。
東人は関東地方の広い荒れ野を耕したり、エゾと戦ったりしました。
東人の勇敢で戦の強いことは有名です。

東人の作った歌を東歌といい「万葉集」巻十四に載っています。
次の歌は常陸国(茨城県の一部)の人が作った歌です。

筑波峯に雪かもふらるいなをかも
かなしき子ろが布ほさるかも

(筑波山が白いのは雪でも降ったのでしようか。そうではありません。可愛いあの子が白い布を干しているのです。)

天智天皇の時代(662年~671年)に、日本は唐や新羅と戦って負けました。
それ以後、北九州や壱岐・対馬(ともに長崎県の一部) などは、国を守る第一線となりました。

いつ、唐や新羅が攻めてくるかわかりません。

政府は、城を築いたり、海岸に兵士をおいて、守りを固めました。
九川や壱岐・対馬を守る、これらの兵士を、防人(さきもり)といいました。

防人たちは、関東地方から難波(大阪)の港まで歩いてきてここから船に乗って、九州へ向かいました。
防人は三年交代で、食料などは、自分もちでした。

そのため、1人の防人がでれば、その家は滅びるとまで言われました。
父や母や妻子と別れ、長い間の兵役に就くために旅立つとき、彼らはどんなに辛かったことでしょう。

防人たちの歌が、有名な歌人大伴家持によって集められました。
「万葉集」巻20に四八四首の防人の歌がおさめてあります。

からころもすそにとりつきなく子らを
おきてぞ来ぬや母なしにして

この歌は、信濃国(長野県)の他田舎人大島という人が作った歌です。
(家を出ようとすると、子どもたちが裾に取り付いて泣いた。母に早く死に別れた子どもたち、その子どもを家において、私は防人になるために家をでた。)

ただ1人の父にさえ別れなければならない子どもの気持ちが忍ばれます。

父母が頭かきなで幸くあれて
いいし言葉ぜわすれかねつる

これは、駿河国(静岡県の一部)の丈部稲麿の歌です。

(父母が私の頭を撫でて、達者でいてくれよ、といった言葉こそは、忘れることができなかった。「あれて」は「あれと」、「言葉ぜ」は「言葉ぞ」の方言)

草枕旅の丸寝のひもたえば
あが手とつけろこれの針持し

これは、武蔵国(東京都・埼玉県の一部) 椋橋部弟女という防人の妻が作った歌です。
(旅先では、寝るときも着物を着たままでしょうから、紐が、もし切れたら、自分でこの針を持って付けてください。「針」は「まり」、「持し」は「持ち」の方言)

妻の夫を思う気持ちが、私たちの胸を打ちますね。



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