今回は国分寺と東大寺について、日本の歴史を紹介します。

七世紀の末頃には、国がつとめて仏教を保護すみようになりました。
天皇が都の大きな寺に土地や収穫物を寄付しました。

また、大官大寺(大安寺)・という朝廷の寺をつくり、国がよく治まるように、祈るようになりました。
このような傾向は、奈良時代になると、いよいよ盛んとなりました。

そして、聖武天皇のときに、国の寺として、莫大な富と労力を使って、国分寺や東大寺が建てられました。

聖武天皇は文武天皇の皇子で、7才のとき、父に死に別れました。
母の宮子夫人(藤原不比等の娘)が病気だったので、皇子は24才で位に就くまで、藤原不比等の妻、橘三千代に養われました。

聖武天皇は、若い頃から、厚く仏教を信仰しました。

天皇は16才のとき、安宿媛と結婚しましたが、この媛が、光明皇后で、やはり仏教を厚く信じた人でした。

天皇が国分寺や東大寺をつくったのも、皇后の勧めによったものと言われているほどです。
壬申の乱以来、平和が続き、聖武天皇の頃には、国の力が充実して文化が著しく進みました。

この頃、隣の唐(中国)は、玄宗という有名な皇帝の時代で、国がよく治まり、文化が目覚しく栄えていました。

日本は唐の高い文化をよく取り入れ、「天平文化」といわれる高い文化を実らせたのです。
天平というのは聖武天皇の頃の年号です。

聖武天皇の時代は平和そうに見えますが、実はよく騒ぎがおこりました。
740年(天平12年) の藤原広嗣の謀反や、藤原氏と橘氏の争いがおこったのです。

貴族の争いに加えて737年(天平9年)は、疱瘡が流行りました。
飢饉が続いたところへ、疱瘡が流行ったので人々は、ばたばた死んでいきました。

人々の惨めな様子を見て、聖武天皇は人々が仏にすがり仏の教えを信じるようになれば、救われるだろうと考えました。

741年(天平13年)、天皇は仏に願を掛け、全国に国分寺・国分尼寺を建てることにしました。
国分寺は正式の名を金光明四天王護国の寺といいます。

金光明最勝王経をおき、仏教を守る四天王の力によって国を守ってもらおうとして建てられたもので七重の塔があります。

国分尼寺は、正式の名な法華減罪の寺といい、法華経をおき罪を救ってもらおうという尼寺です。

また、全国の国分寺の中心として都に東大寺が建てられ、国分尼寺の中心として都に法華寺が建てられました。

740年(天平12年)・聖武天皇が河内(大阪府)の寺に詣ったとき、その寺の盧舎那仏(光りかがやく仏)が天皇の目に止まりました。

そこで天皇は大きくて立派な仏をつくろうと思いたち、743年(天平15年)、大仏造営のみことのりをだし、近江(滋賀県)の紫香楽宮で、その工事を始めました。

「わたくしは国じゅうの富と勢いを持っている。国中の富と勢いを持ったわたくしは、大仏をつくるのは優しいことだ。難しいのは正しい心をもっことだ」

というのが、このときの天皇の言葉でした。

さらに天皇は大勢の民衆に、カを合わせて一緒に大仏をつくるようにと「一本の草、一つかみの土をもってでも大仏をつくる仕事を助けようと思うものは、この仕事に加わってもよい」と全国に呼びかけました。

有名な僧行基が多くの民衆な率いて、手伝いに集まりました。

しかし、紫香楽の工事は、中々進みません。
その上、天皇が紫香楽宮にいたころ、山火事や地震が、しばしばおこりました。

人々はたいへん不安にかられ、役人や僧の間から、都を奈良へ戻したほうがいいという声が高まりました。

そこで740年(天平12年)以後、転々とした遷都さわぎ(恭仁京・紫香楽宮・難波京)を止めて、745年に、都を奈良へ戻しました。

奈良へ帰った聖武天皇は、若草山のふもとにあった、金鐘寺という寺をもとにして、一層大きな寺を造りました。

これが東大寺です。金鐘寺は聖武天皇が敬っていた良弁という僧の寺でした。
光明皇后は学問に秀れ、仏を厚く信じ、情け深い人でした。

皇后は730年(天平2年)に施薬院をおきました。
これは、貧しい民間の病人に薬を施したり、病人を治したりするところです。

奈良の正倉院には、当.時使われた薬が数十種残っています。
施薬院では正倉院からニンジンや肉桂という植物などの薬をもらって使っていました。

皇后はまた、悲田院をつくり、都中の孤児を集めて養いました。
皇后の情け深いことをあらわすものに、次のような伝説があります。

皇后が法華寺(皇后の父、圏原科比等の古い家を皇后が寺にした)に大きな湯どのをつくり、1000人の人の体を洗いました。

1000人目に、らい病の人がきて、うみをすってくれといいました。
皇后は、嫌な顔もしないですってやったところ、病人は金色の光をはなつ仏になりました。

そして皇后に、「あなたは仏の体を洗ったのですよ」といったと思うと、たちまち姿を消してしまったというのです。

この話はもちろん事実ではありませんが、皇后が情け深い人だったので後にこんな話ができたのでしようね。