今回は奈良の大仏について、日本の歴史を紹介します。
745年(天平17年)、再び大仏つくりが始まりました。
みんなで大仏をつくろうという天皇の呼びかけによって、多くの人が物を寄付したり、土工や大工の仕事を手伝いました。
材木を寄付した人が5万人あまり、材木を切ったり、運んだりした人が166万人あまり、金・銀・銅・鉄などの金属を寄付した人が37万人あまりの金属を貼ったり、運んだりした人が51万人以上という、大勢になりました。
こうして、高さがほぼ15.7メートル(これは当時の長さで、今は約14.8メートル)の金銅の大仏ができました。
今の大仏殿は、1180年の源平合戦を初めとして、何度も火事に焼かれ、つくりなおされたものです。
もとの部分で残っているのは台座だけです。
台座の蓮の葉には毛彫(細い線を彫り込むこと)でたくさんの大小のシャカの姿が、彫り込まれています。
大仏殿の前にある八角燈龍も、1200年前のものです。
大仏殿の高さは48メートル、奥行は50メートルで、今のものとその当時のものと、かわりませんが、間口は今の五〇メートルに対し、もとは87メートルありました。
また、大仏の前には、今は残っていませんが、高さ100メートルほどの七重の塔が、東西に2つ並んでそびえていました。
大仏つくりは大工事ですから、すぐに出来上がったわけではありません。
744年(天平16年)に工事をはじめ、745年に奈良の都でやり直し結局、八度鋳なおして6年めに鋳あがりました。
工事の終わり頃になって大仏の体に塗る金が足りなくなり、皆困ってしまいました。
ところが749年2月、陸奥国(宮城県遠田郡)から金が出ました。
天皇をはじめ、みな非常に喜び、年号を天平から天平感宝と改めました。
同じ年の7月、聖武天皇は位を皇太子に譲り、孝謙天皇が位につき年号も天平勝宝と改められました。
その7月に大仏が鋳あがったので、聖武太上天皇は光明皇太后・孝謙天皇とともに大仏を拝みました。
752年(天平勝宝4年) 4月9日、大仏開眼会が、盛大に行われました。
これは大仏に眼を入れる、落成式の供養です。
開眼の日は聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめとして、多くの皇族や役人が式に参列し、1万人にものぼる僧が声をそろえてお経をよみました。
大仏殿の中や外には、美しい色とりどりの旗などがかけめぐらされ、いろいろな花が撒き散らされ、においのよい香が、どんどんたかれました。
インドからきた、ボダイセンナという人が筆をとって、大仏の像に眼をいれました。
儀式のあと、日本に古くからある舞やインドシナ・唐(中国)・高麗(朝鮮)などから伝えられた音楽や踊りの数々が、催されました。
仏教が伝わってから、これほど盛んな儀式は無かったと、朝廷の記録にも記されています。
東の山辺を清み新鋳せる
慮舎那仏に花たてまつる
(奈良の都の東の山辺が清い土地だというので、ここに新しく鋳た慮舎那仏に、花をたてまつる。
慮舎那仏は大仏をさす)
この歌は、六興寺の僧たちが開眼会を祝って朝廷に奉った歌です。
今の奈良の大仏は、高さ約14.8メートル、顔の長さ約3.219メートルで、重さ約443トンです。
これとよく比べられる鎌倉の大仏は1252年(建長4年)につくられました。
その高さは約11.3メートル、顔の長さは約2.3メートル、重さは約93.75トンです。
1586年(天正14年)豊臣秀吉が京都に建てた方広寺の木像の大仏は、高さ19メートルあまりで、日本一の高さでしたが、1593年(文禄2年)の地震や、その後の火事で亡くなってしまいました。
外国でも大きな仏像がつくられました。アフガニスタンのバーミヤーンの大断崖には、4、5世紀頃つくられた石仏立像があり、高さは53メートルもあります。
中国でも、雲岡石窟には17メートルと14メートルの石仏座像があり、敦煌石窟には32メートルという、東大寺の大仏の約2倍もの大仏があり、龍門石窟にも13メートルの石仏があります。
これらの石仏と違って、奈良の大仏は金銅仏としては世界最大級のものです。