今回は平安時代についてのあらまし、日本の歴史を紹介します。
奈良時代の末には、政治をする人たちの間で、争いがおこり、世の中が酷く乱れていました。
そこで、桓武天皇は、794年(延暦22年)、都を京都に移して、政治の引き締めに取り掛かりました。
その一つは、僧が政治にロだしすることを無くそうとしたことです。
そのため、寺の持つ田のもち高を制限して、寺の勢いを弱めました。
しかし、天皇は、仏教を嫌ったのではなく、最澄や空海を励まして、国を守る新しい仏教を研究させました。
また天皇は、坂上田村麻呂に、東北地方のエゾを撃たせたり、無駄な役所を整理したりするなど、国内の政治にカをいれました。
こうして、政治の引き締めは、一応成功しました。
しかし、平安時代も進むにつれ、天皇に代わって、貴族が強い勢いを持つようになりました。
これらの貴族の中でも、特に大きな勢力をもつようになったのは藤原氏です。
藤原氏は、他の貴族を抑えること、自分の娘を天皇の妃にすること、摂政・関白などの高い位につくこと、多くの荘園を手にいれて、財力を豊かにすることなどによって勢力を強めたのです。
そして、朝廷での高い位は、ほとんど藤原氏で固められ、ついには藤原氏が、国の政治を思うままに動かすようになりました。
このように、貴族の勢いが強まるとともに、貴族たちの生活は、次第に、華やかなものになりました。
寝殿づくりの住まいに住み、儀式のときには、束帯や十二単をつけて身を飾り歌を詠みあったり、遊びにふけったりしたのも、この頃です。
こうした貴族たちの華やかな生活の中から、これまでに無い新しい文化が生まれてきました。
日本人の生活や好みにあった文学や美術が、発達してきたのです。
その中でも、特に重要なものは、仮名文字が出来たこと、「源氏物語」などの優れた仮名文学が生まれたこと、大和絵と呼ばれる日本風の絵があらわれたことなどです。
ことに、「源氏物語」は、世界にも知られ、日本が誇ることのできる、大切な文学の一つといわれています。
しかし、このような文化も、まだ国民全体のものではなく、一部の貴族の間にだけ、広まったものでした。
貴族たちが、都で、華やかな生活なしている間に、地方の農村では武士がたくましく育っていました。
一方、貴族は政治らしい政治を行わないため、世の中は騒がしくなるばかりでした。
極楽往生を願う、浄土の教えが広まったのも、この頃のことです。
こうした世の中の乱れを鎮めるためには、どうしても武士の力を借りなければなりませんでした。
もちろん、初めの内は、武士は貴族の命令によって、貴族の手足のように、動かされていたのです。
けれども、そのうちに、武士は自分の力を知るようになりました。
このきっかけになったのが、保元の乱や、平治の乱でした。
武士は、だいたい源氏と平氏の二派にわかれましたが、やがて平氏の平清盛が、太政大臣になり、貴族に代わって、政治を始めるようになりました。
けれども、この平氏の政治も長く続きませんでした。
平氏も、貴族と同じように我がままな振る舞いが多くなり、生活も贅沢になって、やがて、源氏に滅ぼされてしまいました。