今回は平安京について、日本の歴史を紹介します。
称徳天皇のあとに、天皇となったのは、天智天皇の孫の光仁天皇でした。
天皇は、奈良時代の末の乱れた政治を引き締めようと、いろいろ勤めました。
さらに、次の桓武天皇は、人の気持ちを新しくして、一層政治の立て直しを推し進めるために、都を移そうと決心しました。
初めに、長岡(京都府乙訓郡向日町) に、都がつくられましたが、この都づくりを指導していた藤原種継が、工事現場を見回っているとき突然、殺されるという騒ぎがおこりました。
そこで天皇は、この長岡は都としては、めでたくない土地と考えたのでしょう。
やがて、この長岡から、少し北のほうの土地に、再び都を作り直すことになりました。
これが平安京で、今の京都市のおこりです。
平安京の都づくりには、道鏡の野心をくじいた和気清麻呂や、帰化人の秦氏などが、おおいに活躍しました。
秦氏は、古くからこの地方に住んでいた帰化人で、多くの財産をもっていたのです。
こうして、都づくりは、順調に進み、794年(延暦22年)に、桓武天皇は平安京に移りました。
そして、この時から明治天皇が東京に都を移す1868年(明治元年)まで、1000年以上もの長い間、だいたい、この平安京が我が国の都となっていました。
またこのうち、1185年(文治元年)、平家が壇ノ浦(山口県)で源氏に滅ぼされるまでのおよそ400年間は、平安京が政冶の中心になっていました。
そこでこの時代を、平安時代と呼びます。
今の京都は、平安京から引き続いてできた町ですが、長い年月の間に、町の様子は、ずいぶん変わってきました。
最初の平安京は、今の京都の町よりもかなり西のほうにつくられました。
始めの頃の都市計画によると、町は東西およそ4.5キロメートル、南北およそ5.3キロメートルもありました。
そして、その周りには、厚さ約2メートルの垣を巡らし、垣の内と外には、それぞれ、約3メートルの溝が掘られました。
天皇の住まいである内裏と、役所とは町の一番北部の中央にまとめられました。
この区域を大内裏といいます。
この大内裏の南正面から、道幅およそ84メートルの朱雀大路が通っていました。
都は、この大路によって東西にわけられ、東を左京、西を右京と呼びました。
朱雀大路の南の橋には、羅城門という門がつくられました。
この門が平安京の正門でした。
左京・右京の町並みは、大小の道によって、碁盤の目のように区切られました。
宅地は、南北の道に面し、間口が狭く、奥行が長く区切られました。
また、大きな道の両側には、排水のための溝がつくられ、柳の並木などが植えられました。
このような作り方はだいたい平城京と同じですが、その規模は平城京よりも、一層大規模でした。
もちろん、こうした都市計画が、完全に全部出来上がったわけではありません。
右京にあたる西のほうは家も少なく、荒れ果てたままでした。
貴族や役人たちの家は、左京の大内裏の周りに集まっていました。
左京・右京には、それぞれ市(いち)が開かれました。
左京の東市には51、右京の西市には33の店があって毎月、15日以前は東市で、16日以後は西市で、店を開くのが建前になっていました。
この市には、米・塩・味噌・干し魚・生魚などの食料品店はもちろん、絹の:衣類・筆・墨などを売る店もあって、正午頃から、日暮れまで商売が行われました。
平安京に都を移した桓武天皇は、次々と政治の引き締めにとりかかりました。
まず、役人の監督を厳しくし、班田収授法を実行させました。
口分田をわける班田収授法も、田の不足や役人の怠け癖のため、この頃には6年に一度という決まり通りに行うことが難しくなっていました。
そこで、12年に一度とし、その代わりに必ずこれを実行させるようにしたのです。
また農民を兵士に取り立てることを止めて、地方の郡司の子どもなどを兵士にすることにしました。
これを健児といいました。
また、寺のもつ田のもち高を制限し、僧が金儲けをすることを禁じました。
奈良時代の末に、僧の勢いが強くなって、政治が乱れるもとになったのは寺がたくさんの田や財産をもっていたからでした。
そのほか、政治の仕組みも改められました。
律令で決められた政治の仕組みは、形は整っていましたが中国のものを真似てつくったものだけに、
日本の国情に合わないところも多く無駄な役所もかなりありました。
このため、必要に応じて、令外の官という律令に決められていない役人や役所がおかれました。
桓武天皇も、国司を監督する勘解由使などの令外の官をおき、政治を引き締め、行いやすくしました。
この方針は、桓武天皇ばかりでなく、次の平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇と引き継がれました。
律令を補うために出された法令を格式といいますが、これらが次々に集められ、律令と並んで、政治のよりどころとなりました。
こうして、政治の引き締めは一応、成功しました。