今回はみちのくのエゾ(蝦夷)に初まり、坂上田村麻呂について、日本の歴史を紹介します。


この頃の都の人々は、東北地方のことを「みちのく」と呼びました。
「道の奥」という意味です。

この言葉からも、都の人たちが東北地方を非常に遠い所と思っていたことがわかります。
この東北地方には、エゾ(蝦夷)が住んでいました。

大和朝廷が日本を統一する頃には、エゾは中部地方の辺りにも住んでいましたがだんだん大和朝廷に押されて、東北地方へ退いていったのです。

しかし、その勢いは中々強く、朝廷の政治も八世紀になって、ようやく今の秋田県・宮城県あたりまで行き届くという有様でした。

しかも、エゾ(蝦夷)の住む土地との境には、城や柵をつくって、エゾ(蝦夷)の攻めてくるのを防ぎながらこの地方を治めていました。

仙台市の近くに多賀城や、秋田市の近くに秋田城がつくられたのも、この頃のことです。
しかし、奥地へ追いやられたエゾ(蝦夷)は、ときどき城や柵へ、攻めこみました。

奈良時代の末の光仁天皇のときには、エゾ(蝦夷)のために将軍が殺され多賀城を占領されたほどでした。

桓武天皇ぼ、坂上田村麻呂を征夷大将軍にして、三度エゾ(蝦夷)をうたせました。

坂上田村麻呂は、帰化人阿知使主の子孫と伝えられ、父の刈田麻呂も祖父の犬養もみな武人として、よく知られた人でした。

こうした家に育った坂上田村麻呂は、子供のときから弓をひいたり、馬に乗ったりすることが、非常に上手でした。

大人になったときには、身長176センチ、胸の厚さが36センチもあったということです。

また坂上田村麻呂は、一度怒れば、猛獣も恐れをなし、笑えば赤ん坊もなつくといわれるような強くて優しい人でした。

801年(延暦20年)、三度目のエゾ地進軍のとき、坂上田村麻呂は、エゾの根拠地であった北上川の上流に攻め入り、今の盛岡市の近くに志波城をつくりました。

これ以後、エゾの力は弱まり、これまでのような大きな反乱はなくなりました。

そして、次第に同じ日本人として生活するようになりました。