今回は平安時代の貴族の衰えと貴族の生活と
迷信について、日本の歴史を紹介します。


あれほど盛んであった貴族の勢いも、やがて衰えるときがきました。
その一番大きな原因は、貴族が怠け者になってしまったことでしよう。

貴族たちは、荘園からの収入で贅沢な暮らしができました。
文化が進んだのも、そのおかげです。

しかし、政治の仕事は、下のものに任せきりでした。
文化も生活を楽しむための文化ばかり進み、物の生産を高める技術のほうは、あまり進みません。

また、宮中での仕事といえば、毎年繰り替えされる年中行事を行うだけです。
その上、貴族の中でもそれぞれの家筋によって、役がらがだいたい決まってしまいました。

例えば、摂政や関白には、藤原氏北家の中でも藤原道長の子孫だけ、文章博士(大学の詩や歴史の先生) には大江氏と常原氏、外記(書記役)には中原氏、医者には和気氏と丹波氏という具合です。

これでは、貴族たちも努力のしがいがありません。
貴族はだんだん気力を失い怠け者になり、迷信深くなっていきました。

平安時代の貴族たちは、迷信に捉われながら毎日の生活を送っていました。
貴族たちは、日柄の良い悪いによって、朝廷へ出勤したり家に閉じこもったりしました。

このように、日柄が悪くて家に閉じこもることを「ものいみ」といいます。

その日は、家の門を閉め、ものいみと書いた札を立てて、人の出入りな禁じました。

また、ものいみには、少しは人にあってもよい、軽いものいみと、絶対に人にあってはならない、思いものいみとがありました。

重いものいみの日には、どんなに大切な用事で人が訪ねてきても、あいませんでした。
もし、ものいみの日に人にあえば、大きな災難を受けると信じていたのです。

天皇や摂政・関白のような人のものいみの日などは、政治が出来た異様な有様でした。
迷信深くなればなるほど、ますます、自分頼りなくなって、仏や神に頼るようになります。

そのため、天台宗や真言宗の寺は、たくさんの貴族たちからお祈りを頼まれて、ますます、繁盛しました。

そして、繁盛する寺は荘園も多くなり、僧もたくさん集まりました。

寺は、自分の勢力を守るために身分の低い僧に武術を習わせたり、荘園の農民を兵士にしたてたりしました。

僧兵というのは、こうして生まれました。
寺は、貴族が神や仏を頼りにしているのをよいことにして、だんだんわがままを言い出すようになりました。

そのわがままな貴族がきいてくれないと、寺にある鎮守の神のみこしを僧兵たちにかつがせて、京都に暴れこませました。

貴族たちは、理屈に合わないと知りながら、神のみこしと僧兵の勢いを恐れて、寺の言うことを聞き入れました。

そればかりではありません。
僧たちは、お互いに喧嘩をし、戦までするようになりました。

特に、比叡山の延寺と、延暦寺からわかれた大津の園城寺(三一井寺)との喧嘩はものすごく、園城寺はこの喧嘩のために、何回も焼き討ちに合いました。

人を助け、世の中を救うはずの僧たちが、かえって人を苦しめ、世の中をおかしくするのです。
それでも、貴族たちは何もできません。
「世の末」が来たと言って、嘆いているばかりです。

このように、気力を失くした頼りない貴族の世の中がやがて若々しい新しい力をもった武士の世の中に、変わっていったのも、当然のことと言えますね。

十世紀の中頃、右大臣藤原道長の祖父が書きのこした子孫への戒めを見ると、平安時代の貴族が、いかに迷信深かったかがわかります。

それには、守るべきこととして、次のようことが書かれています。
「朝起きると、まず自分の星の名を低い声で七回唱えよ。

(その頃、人は生まれつき北斗七星の内のどの星かに自分の運命が支配されていて、その星をまつれば、幸福になれると信じていた。)

次に歯をみがき、手を洗って西に向かい仏名(仏の名)を唱え、また、普段信仰している神に祈れ。
次に機能の日記をつけてから、粥を食べ、髪を櫛でとく。
髪をとくのは、男なら三日に一度でよい。

次に手足の爪を切るが、丑の日には手の爪、寅の日には足の爪を切れ。
日を選んで、だいたい五日目ごとに風呂に入れ……」

だいたい、こんな具合です。
何から何まで、迷信に支配されている様子がよくわかりますね。