今回は平将門と藤原純友について、日本の歴史を紹介します。
平安時代も末頃になると、世の中がひどく乱れてきました。
皇居に近い朱雀門にさえ、強盗をして暮らしている女が住んでいたということです。
役人でありながら、強盗や殺人をするものさえ、珍しくありませんでした。
都の乱れにも増して、地方の乱れはひどいものでした。
例え駿河国(静岡県の一部)では国司や郡司までも、強盗のために殺されたことがありました。
また、十世紀の初め頃、関東地方では、大勢の盗人が群れをつくり、方々を荒らし回りました。
瀬戸内海では、いりくんだ島々の間をぬって、海賊たちが暴れまわりました。
京都へ贈る年貢米や、旅人の荷物を奪おうとするのです。
こうして、都も地方も物騒になりましたが、国の力では、これを取り鎮めるだけの力が、もはや無くなっていました。
十世紀の半ば頃、関東地方に、大きな反乱がおこりました。
将門の乱といわれるものです。
平将門は、桓武天皇の子孫です。
将門の祖父は、天皇から「平」という姓をもらい、関東地方の役人になりました。
そして、勤めの期間が過ぎても、京都に帰らず、関東地方に住み着いたようです。
その子や孫は、関東地方のあちこちで、土地を開いて大地主になりました。
将門もそのひとりです。
将門は、下総の小貝川(利根川の支流) の辺りに、広い土地を切り開きました。
ところが、同じ関東地方に住み着いた叔父との間に、土地の争いをおこしました。
また、常陸国(茨城県の一部)の役人と争いをおこしました。
この争いが、もとになって、とうとう朝廷に手向かうことになりました。
将門は、関東地方の大部分をおさえ、自分が新しい天皇であるといって、下総の石井(茨城県)というところに都をつくりました。
また、いろいろな役人をおいて、小さな国のようなものをつくりました。
丁度同じころ、西の方では、藤原純友が海賊となって、瀬戸内海を荒らし始めました。
藤原純友は藤原冬嗣の子孫で・伊予国(愛媛県)の国司をしていました。
しかし、勤めの期間が過ぎても、京都に帰らず、その土地に住み着きました。
そして、瀬戸内海の海賊たちの頭となり、豊後水道にある日振島を根城にして、瀬戸内海を暴れまわったのでした。
こうして、東と西とで、一度に大きな反乱がおこりました。都の貴族たちは驚きました。
自分たちの知らない間に、地方には、こんなに勢いの強い人々が、あらわれていたのです。
この2つの乱は、5,6年もかかって、ようやく鎮まりました。
将門は、同じ関東に住み着いていた平貞盛や藤原秀郷のために、攻め滅ぼされました。
一方、藤原純友は、朝廷から差し向けられた軍に博多(福岡市)で攻め破られ、伊予国に逃げ返ったところを、橘遠安に捕えられて、殺されました。
しかし、このことがあってから、朝廷の信用は、目に見えて落ちました。