今回は源氏と平氏について、日本の歴史を紹介します。

国司は、もともと刀を持ったり、弓矢を持ったりすることは許されませんでした。

しかし、世の中が物騒になって強盗のために殺される者があるようでは、国司も武器を持たずにはおれません。

また、国内の農民から、租税を取り立てるためには強い手下があったほうが便利です。
そこで、国司たちは、刀を持ったり、兵士を従えたりすることを許して欲しいと、朝廷に願いでました。

そして、十世紀頃からは、国司が勤め先の土地へ行くときには、郎等を連れて行くようになりました。
こうして、次々と各地の国司をつとめる人々の中にも、武士になる者が出てきました。

こうして出来た武士の内でも、特に力の強いものは、カの弱い農民たちから便りにされ、頭と仰がれるようになりました。

これを、武士の棟梁といいます。

武士の棟梁には藤原秀郷のような藤原氏からでた人もあれば、橘遠安のように橘氏からでた者もありました。

けれどもその中で、特に数多くの武士の棟梁がでて、しかも勢いが強くなったのは、源氏と平氏でした。
源氏も平氏も、皇族の子孫です。

天皇の子は親王、親王の子は王と言い、それ以後五代目か六代目になると、姓を与えられて、皇族を離れるという決まりでした。

けれども平安時代になると、一代目で姓をもらって、皇族から離れるものが多くなりました。
源氏も平氏も、その1つです。

平氏には、桓武天皇からでたもの、仁明天皇からでたもの、文徳天皇からでたもの、光孝天皇からでたものがありました。

そして、その多くは都に住み着いて、役人をしていました。
ところが、葛原親王(桓武天皇の皇子) の子の高見王は、若死にしたせいもあったのでしよう。

あまり目立った役にもつきませんでした。

そこで、その子の高望王は、都に住みつかず、「平」という姓をもらって、上総国(千葉県の一部) の国司となり、関東地方に住み着きました。

高望には、数人の子どもがありましたが、どれも関東地方に住みつき、土地を開いて豪族となりました。

平将門は、高望の孫にあたり将門の乱も、この関東の平氏の内輪もめから、おこったのです。
将門の乱から90年ほど経つと、今の千葉県で、平忠常が乱をおこし、将門の乱と同じように、大騒ぎをしました。

この忠常も高望の子孫でした。
しかし、関東の平氏は、忠常から後は、目立った活動をしなくなりました。

これに代わって、関東地方から伊勢国(三重県の一部)に移った平維衡の子孫が・武士の棟梁として仰がれ、活動をするようになりました。

関東の平氏が忠常の乱以後、大人しくなったのは忠常が源頼信という源氏の棟梁に降参し、源氏の勢いが
関東地方で強まったからです。

源氏も、平氏と同じように、多くの家筋にわかれています。

嵯峨天皇の子孫をはじめ、仁明天皇・清和天皇・陽成天皇光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・林心元皇など、数多くの天皇の皇子が、源氏を名乗りました。

そしてその多くは、都に住んで役人となりました。
中でも、村上天皇の子孫の源氏は優れた学者や政治家がたくさんでて、藤原氏と並び、朝廷で重く用いられました。

けれども、源氏の中にも、都に住みつかず、地方の国司になったものが、かなりいました。
貞親王(清和天皇の皇子) の子の経基もそのひとりで、武蔵国(東京都・埼玉県と、神奈川県の一部)の国司となりました。

経基は、藤原純友の乱のときに活躍しましたが、さらに、経基の子の満仲、満仲の子の頼信などの働きによって源氏は、次第に武士の家柄として名をあげていきました。

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