平安時代に武士が誕生したころについて、日本の歴史を紹介します。


12世紀にできた本に、「新猿楽記」というのがあり、この中に田中豊益という大地主の話が載っています。

(田中豊益は大百姓である。農業より他には、何もしない。
前もってその年の気候な考え、スキやクワやカラスキも使っくいる。

つつみやほりや用水路をつくるときも、種まきや土おこしや田植えのときも、農民や手伝い女を上手に指図する。

田には・わせ・おくて・もち米などをつくり、畑には、大豆・小豆・ササゲ・粟・キビ・蕎麦・胡麻などをつくっている。

とれ高は、年ごとに増え、一粒の種から、万倍の実りを取り入れ、種まきから取り入れまで、少しの手違いもない)田中豊益のような優れた大地主は、この頃には、至るところに出てきました。

これらの地主の田や畑は、その地主の名前をとって、「何々名」と呼ばれましたので、彼らのことを、名主と呼ぶようになりました。

また、名主の内でも特に、たくさんの田畑なもち、大勢の農民を使い、豪族と呼ばれるような勢いの強い者もあらわれました。

豪族は下に、幾人もの名主を従えていました。

朝廷の命令で、地方へ行った国司の中にも、そのままその土地に住みついて、豪族になるものもあらわれました。

平将門や藤原秀郷などがそれです。
また、古くから地方に住んでいる古い家柄のもので、豪族になるものもありました。

しかし、世の中は、ますます物騒になるばかりです。
豪族たちは、泥棒の用心もしなければなりません。

そのうえ隣の豪族が、自分の土地を広げようと、無理に、攻め込んでくることもありました。

こういうときに、実力で手向かうために豪族たちは、自分の手下の農民の中から、カの強いもの、気の利くものなどを選んで、武器を持たせました。

これが郎等と呼ばれる人たちです。
豪族たちは、何か争いがあると、20人、30人もの郎等を引き連れて、戦うようになりました。

このような豪族やその家来を、武士といいます。

貴族と芋粥

都のある貧乏な貴族が、「芋粥を腹いっぱい食べてみたい」と言いました。

これを聞いた藤原利仁にという敦賀(福井県)の豪族が、自分の国へこの貴族を連れて来ました。
利仁の家に泊まった貴族は、夜中に1人の男が、屋敷の裏山で大声をあげて叫んでいるのを聞きました。

「この近所の家来ども、よく聞け! 明日の朝早く、切りロ三寸(約9センチ)、長さ五尺(約150センチ)の山芋を、一本ずつ持ってこい」と叫んでいるのでした。

よく朝、貴族が起きてみると、大きな山芋が、のきに届くほどたくさん積んであり、20人ほどの男や女が大釜で、芋粥を作っていました。

貴族はこれを見ただけで、腹がいっぱいになり、小さな茶碗に一善しか食べられず、利仁に割られました。

「今昔物語集」という本に書かれている話です。

豪族がどんなにたくさんの家来を持っていたか、また、その勢いが強かったかがわかりますよね。