今回は院政について、日本の歴史を紹介します。
後三年の役があった頃、摂政、関白の勢いが衰えて、上皇が院を行うようになりました。
上皇というのは、天皇の位を退いた人ですが、この上皇が朝廷とは別に政治を行うことを院政というのです。
醍醐天皇以来、代々の天皇は、みな藤原氏の娘が生んだ皇子でした。
ところが、藤原頼通り頃になって170年ぶりに藤原氏に関係のない天皇が、位につくことになりました。
後三条天皇です。後三条天皇の母は、三条天皇の皇女でした。
天皇と血の繋がりが無くなった頼通は、関白を弟の教通に譲って、宇治に引っこみました。
後三条天皇は、学者の大江匡房などを相談相手にしながら、藤原氏に遠慮することなく、政治を改めていきました。
物の値段を定めたり、ますを統一したりしました。
中でも、各地にあるたくさんの荘園の整理には、一番熱心でした。
これまでも、ときどき荘園を整理しようという試みは行われましたが、荘園を最も多く持っているものが摂関家ですから、少しも効果が上がりません。
けれども、後三条天皇は、摂関家の荘園でも、大きな寺や神社の荘園でも、容赦なく書きつけを出させて調べました。
そして、新しい荘園や、国司の政治に邪魔になるような荘園は、どしどし取り上げました。
荘園ができたため、収入が減って困っている国司たちが、喜んだのは、言うまでもありません。
藤原氏をよく思っていない貴族たちも、天皇のやりかたに賛成しました。
後三条天皇は、わずか数年で、位を白河天皇に譲りましたが、上皇になってからも、引き続いて政治を行おうとしました。
白河天皇の母は、藤原氏からでた人でしたから、その次の天皇には、藤原氏と関係の無い皇子を、天皇の位につけようと思ったからです。
つまリ、これから先も、藤原氏が再び、わがままなことなしないように、という考えでした。
けれども、後三条天皇は、これを果たす前に亡くなってしまいました。
後三条天皇が亡くなると、白河天皇は後三条天皇の心に背き、藤原氏の娘から生まれた自分の皇子を、皇太子に立てました。
続いて、天皇の位を譲って上皇になりましたが、政治はそのまま行いました。
自分の子孫が、引き続いて天皇になれるように、子孫の地位を守るためでした。
院政は、こうして始まったのです。1086年(応徳三年)のことでした。
白河上皇は、院政を始めてから10年の後、髪を剃って法皇になりましたが、院政は、そのまま続けました。
また、法皇は、仏教を深く信仰し、大きな寺や、たくさんの仏像をつくりました。
しかし、延暦寺や興福寺の僧兵たちは法皇の信仰深いのをよいことにして、ますます乱暴になりました。
法皇は「自分の思う通りにならないのは、賀茂川(京都市を流れる川)の水と、すごろくのさいと、山法師(僧兵) の三つだ」と嘆いたと伝えられています。
僧兵たちの乱暴を取り鎮めるには、どうしても、武士の力を借りなければなりませんでした。
法皇は、源義家が生きている間は、源氏の武士を用いましたが、義家が死ぬと、平維衡のひ孫の正盛をとりたてました。
義家が、あまりに地方の武士や農民に人気があるので、これ以上源氏をとりたてるのは、危ないと考えたのでしよう。
平氏は、院政が始まると、法皇の取り立てによって、にわかに勢い:が強くなりました。
そして、正盛の子の忠盛のときには、昇殿を許されました。
昇殿というのは、天皇が普段住んでいる清涼殿の殿上の間に出入りすることで、昇殿を許されるということは、貴族にとってもなかなか名誉なことでした。
院政は、天皇の父、または祖父にあたる上皇が、政治を行うので、これまで天皇の母方の祖父が政治をした摂関政治と似ています。
しかし、摂関政治では、形だけは天皇を中心としていましたが、院政では、天皇はもちろん、摂政・関白も、ほとんど意見を述べることができません。
たいてい、上皇や上皇のお気に入りの者の独り決めで決まります。
上皇のお気に入りの者を、そのころ「院の近臣」と言いました。
役や位は、貴族の中では、わりあい低いのですが、その勢いは、摂政や関口をも、凌ぐほどでした。
院政を行う事務所を、院庁といいます。院の近臣たちが、そこの役人になりました。
院庁や上皇の住まいを守るのは武士でした。
この武士は「北面の武士」と呼ばれ、政治の上でも、だんだん重く用いられるようになりました。
こうして、武士は次第に勢いを増し、実力を強めていきました。