今回は平氏を滅ぼした、壇ノ浦の戦いについて、日本の歴史を紹介します。
義仲を滅ぼした範頼と義経は、やがて平氏を征伐することになりました。
そのころ平氏は九州で勢いを盛り返し、四国の屋島に根拠地を構えました。
1184年(元暦元年)平氏は福原に返り、一ノ谷に陣をとりました。
義経は鴨越から平氏の後ろに回って、不意打ちをかけたのでこれをきっかけとして、平氏の軍勢は総崩れになりました。
このとき平氏の軍勢の大将たちは、たくさん討ち死にしました。
平敦盛は、このときわずか16才でしたが、熊谷次郎直実に組み伏せられ悲しい最期を遂げたと言われます。
平氏の軍は、屋島へ逃げ帰り、範頼と義経は京都へ引き上げました。
けれども、まもなく平氏を追い討ちにすることとなり範頼は山陽道から九州へ向かいました。
範頼の軍は、非常に苦しい戦いを続け、早く関東へ帰りたいと思うものが多くなりました。
しかし平氏の勢いは、まだまだ強く、範頼の大軍もなかなか屋島へ攻め進むことができません。
そこで、そのころ、頼朝によく思われていなかった義経も、再び平氏を討つように頼朝から命じられました。
義経は、1185年(文治元年)、嵐の中を、摂津国(兵庫県の一部と大阪府の一部) から阿波国(徳島県)に渡り、にわかに屋島へ攻め込みました。
わずか数百の軍勢で平氏の水軍を打ち破ったのです。
この戦で、平氏の船で官女が扇の的を掲げたのを須与一宗高が見事に射落として、敵味方からほめられた話や、佐藤継信が義経の身がわりになって討ち死にした話も伝わっています。
平氏は、このようにして屋島からも、逃げ出しました。
義経は700の軍船を率いて、ついに平氏を長門の壇ノ浦(山口県) に追い詰めました。
平氏は500の軍船で防ぎました。しかし、勝利は源氏のものでした。
生き残った平氏の人たちは8才の安徳天皇とともに海に身を投げました。
総大将の宗盛は、捕えられ、やがて近江(滋賀県)で斬られました。
安徳天皇の母平徳子も身投げなしましたが、源氏の兵士に助けられ後に京都の寂光院で、亡くなった人たちの、あの世の幸せを祈りながら一生を終えました。
このようにして、平家はすっかり滅びました。1185年(文治元年)3月のことです。