今回は木曽義仲について、日本の歴史を紹介します。


頼朝のいとこにあたる義仲は木曽の山奥で育ち、木曽義仲とも呼ばれました。

平氏を滅ぼせという以仁王の命令を受けて立ち上がり信濃国(長野県)から越後国(新潟県)にすすみました。

それから平維盛の大軍を越中国(富山県)の礪波さんで打ち破りました。
義仲は、このとき、たくさんの牛の角に松明をつけ敵の陣地へ追い込み、そのために平氏の軍勢は驚き慌てて逃げ出したということです。

このようにして、義仲は、近江国(滋賀県)にすすみ延暦寺の僧兵と手を結んで京都へ攻め上りました。
義仲が京都に近づくと、平氏は清盛の子、宗盛以下安徳天皇をつれて西国へ逃げ出しました。

文平氏と仲の悪かった後白河法皇は、そのまま京都に残りました。
やがて義仲の軍が、京源都に入りました。

しかし都の貴族たちは、田舎育ちの義仲を馬鹿にしました。
そのうえ義仲の軍が、都でいろいろ乱暴な振る舞いをしたので、都の人々に、嫌われるようになりました。

そこで後白河法皇は、頼朝に頼んで、義仲の勢いを押さえつけようと考えました。
法皇は、義仲に平氏を追い討ちにするように命令を下しました。

出かけて行った義仲の軍は、備中国(岡山県の一部)の水島の戦いで負け散々な目にあって京都に引き上げてきました。

一方、後白河法皇から、義仲を退けるように頼まれていた頼朝は弟の範頼と義経を大将として京都に向かわせました。

義仲の軍と、鎌倉側の軍は、瀬田(滋賀県)と宇治(京都府)の近くで戦い義仲の軍は破れました。
義仲も琵琶湖のほとりの粟津で、ついに戦死してしまいました。

一時は、旭将軍木曽義仲とも言われましたが最期は、哀れな死にかたをしました。

木曽義仲が京都に近づくと、平氏の公達な、次々に都落ちをしました。
そのひとり薩摩守忠度も、都を出ましたが途中から引き返して和歌の先生であった藤原俊成の門を叩きました。

門の中では、落ち武者が来たと、騒ぎ立てましたが、俊成は門を開けさせました。
忠度は「もう平氏の行く末も終わりです。

近く勅撰集(天皇の命令でつくられる和歌集)が作られるとのことですが、一首だけでも載せて頂けたら、一生の喜びです」と言って和歌を書いてある巻物を俊成に預けました。

忠度は、一の谷の戦いで、なごりの歌を鎧に結び付けて戦死しました。
その後、世の中が治まると千載和歌集をつくることとなりました。

そこで忠度のことを思いだし、「故郷の花」という歌を一首選びました。

さざ波や志賀の都は荒れにしを
昔ながらの山桜かな

しかし忠度は、天皇の咎めを受けた人なので「詠み人知らず(つくった人がわからない)」として載せました。