今回は鎌倉幕府の仕組み、守護・地頭・侍所・公文所・問注所について、日本の歴史を紹介します。


頼朝は関東に兵を挙げてから有力な関東武士のすすめによって鎌倉を根拠地として、ここに幕府を開きましたた。

頼朝は、1180年(治承四年)、安房国(千葉県の一部)から鎌倉庁に入り以後1199年(正治元年)に死ぬまで、鎌倉を根拠地として全国に命令を出しました。

頼朝は鎌倉殿と呼ばれ、頼朝に直に仕える武士は御家人と呼ばれました。
鎌倉殿と御家人の結びつきは、上からの御恩と下からの奉公という関係で非常に強いものでした。

1192年(建久三年)、頼朝は征夷大将軍に任ぜられました。
征夷大将軍は、始めエゾ(蝦夷)征伐の将軍を指していました。

1184年(元暦元年)に、源義仲が、なってからは、武士で天下の権を握るものを指すようになりました。

つまり全国の武士の総大将の位です。頼朝は、征夷大将軍以外の位は全部断りました。
こうして鎌倉幕府は形の上からも、実カの点からも、すっかり完成しました。

頼朝は部下を取り締まるために、1180年(治承四年)侍所という役所をおき和田義盛をその別当(長官)にしました。

1184年(元暦元年)、頼朝は公文所と問注所の二つの役所をおました。
公文所は財政のほか、一般の政務を扱い、問注所は裁判についての事務を扱うところです。

公文所の別当には大江広元が、問注所の執事(長官)には三善康信がなりました。
ふたりとも頼朝が京都から招いた学者です。

公文所は、後に政所と改められました。
前に設けられた侍所と合わせて、ここに幕府の三大機関と呼ばれる政治の仕組みが完成したのです。

頼朝の全国を治めるカを高めたのは、守護と地頭をおいたことでした。

1185年(文治元年)、頼朝は義経たちを捕えるために、国々に守護なおき国の領地や荘一園の中でも、全てに地頭をおくことを、後白河法皇に認めさせました。

義経を捕まえるというのは表向きの理由で本当はこれによって全国に頼朝の力を広げようとしたのです。
守護は国々の取り締まりや、警所察にあたる権利や、御家人を指図する権利をもっていました。

また大社寺を直したり、道路や宿駅を整えたりするのも守護の役目で一国ひとりの割合で有力な御家人が任ぜられました。

地頭はもともと荘園内の地主で、多く武士になっていたものですが頼朝は有力な御家人をその任にあてました。

地頭の役目は、税を取り立てること、土地を管理すること軽い犯罪を取り締まること、などがあります。
守護と地頭のほかにも、地方には奉行というのがおかれたところがありました。

奥州(東北地方)には、平泉の藤原氏が滅んだ後に、総奉行がおかれ、また九州地方にぼ、鎮西奉行がおかれました。

守護・地頭がおかれ、地方に奉行がおかれたことによって鎌倉幕府の勢力は、全国に広がりました。
頼朝は守護・地頭や侍所・政所・問注所などの仕組みを通して、武士による政治を執るようになりました。

京都の朝廷は、後白河法皇な中心に、鎌倉幕府と対立していましたが幕府の勢力が強まるにつれて、その力は次第に弱くなっていきました。

つまり頼朝による武家の政権と、後白河法皇を中心とした公家の政権とがあったのですが、実際の権力は、頼朝の手に握られていました。

その後、1219年(承久元年)の承久の乱によって、皇室側は、政治の権力を幕府から奪い返そうとしましたが、失敗に終わりました。

そのため皇室の勢いは、急に衰えました。

頼朝が幕府を開いて武家政治を始めてから、明治維新によって江戸幕府が倒れるまで政治はほとんど皇室の手を離れ、武士による政治が続きました。