今回は源氏が滅びたころの日本の歴史を紹介します。

1198年(建久九年)の暮れ、御家人のひとり、稲毛重成が相模川(神奈川県)に橋をかけその落成式が行われました。

その式に出席した頼朝は、帰り道で馬から落ち、それがもとで、あくる年の1199年(正治元年)、53才で亡くなりました。

頼朝に続いて長男の頼家が将軍になりました。

しかし、そのとき、頼家は18才の若者でしたのでたくさんの御家人たちを率いる、充分な力がありません。

北条時政と政子のカ強くなったのは、このときからでした。
政子は頼家の母で、時政の娘です。

頼朝が死んだ後、政子は政治の上に大きな力を持つようになりました。

頼家が将軍となって3日も経たない内に、政子は頼家の手から裁判権を奪い北条時政たち12名の重臣が集まって相談する仕組みに移してしまいました。

これに対し頼家は、黙って引っこんではいませんでした。
自分の気に入った者を身近において、思う通りに政治を執ろうしました。

頼家を中心とする一派と、自分たちの言い分を通そうとする御家人たちの一派とが対立しました。
時政と政子は計略を用い、有力な御家人、梶原景時・比企能員を倒してしまいました。

比企能員は頼家の妻の父です。
こうして、時政と政子は、次第に幕府の実権を握るようになったのです。

頼家は和田義盛・新田忠常らに時政を討つよう命じました。
ところが義盛は時政側についてしまい、忠常は殺されました。

時政はさらに頼家が病死したと偽って、弟実朝を将軍にたてました。
頼家は伊豆国(静岡県の一部)修善寺の寺に閉じ込められてしまいました。

そして1204年(元久元年)7月、入浴中に時政の差し向けた兵によって殺されてしまいました。年はわずか23才でした。

1203年(建仁三年)、将軍となった実朝は、まだ12才の少年にすぎませんでした。

時政は自分の家へ実朝を引き取り、大江広元とともに政所の長官となり実朝の後見として政治な執るようになりました。

こうして、北条氏の政権の基礎が固められました。

幕府には、頼朝の頃から仕えている豪族の武士がたくさんおり北条氏の勝手な振る舞いを許しませんでした。

しかし、北条氏は機会を見て、これらの豪族を滅ぼそうと考えました。
まず、時政は平氏との戦に手柄のあった畠山重忠を殺しました。

時政の子の義時は父に代わって政治を執るようになり、執権という役につきました。
執権というのは、将軍の後見として、政所や侍所の長官となって政治を執る職をいいます。
義時は、侍所の別当(長官)和田義盛を殺しました。

こうして北条氏に反対する御家人は倒され、義時は侍所の長官を兼ね執権政治を確立したのです。
義時以後、鎌倉幕府は、その子孫が代々執権という役めをつとめました。

こうなると、実朝は、将軍といっても名ばかりのものでした。
政治から逃れて、和歌や蹴鞠に日を送る有様で、武士としてよりも歌人将軍として有名です。

実朝は和歌を京都で名高い歌人、藤原定家に学び定家が驚くほどの優れた歌人となりました。
そして「金槐和歌集」という、立派な歌集を残しました。

実朝は幕府の政治も自分の思うようにならないことから官位のあがることで、わずかに心を慰めていました。

大納言・左近衛大将・内大臣などを経て、ついに27才の若さで右大臣にまで昇りました。
1219年(承久元年)正月の雪の夜、鶴岡八幡宮で実朝が右大臣の位に就く式が行われました。

式が終わって、実朝が社前の石段を降りてきたとき八幡宮の別当の公暁が大イチョウの陰から踊り出て、実朝を切り殺しました。

公暁もすぐ捕えられて殺されました。公暁は頼家の子どもです。

こうして源氏の将軍は頼朝から、わずか三代で滅んでしまいました。
実朝には子どもがなかったので、政子がしばらく政治を執っていました。

やがて、頼朝とわずかに血の繋がりのある、京都の公家左大臣九条道家の子で当時わずか2才の三寅が将軍となりました。

三寅は後に藤原頼経といいました。

政子は三寅の後見人として政治な執ることになり、人々から尼将軍と呼ばれました。