今回は承久の乱と六波羅探題について、日本の歴史を紹介します。
そのころ京都で院政をしていた後鳥羽上皇は、源氏の血筋が絶えたのを聞いて喜びました。
政治の権力がまた朝廷に戻ると考えたからです。
ところが、政子と義時は三寅を将軍に迎えて、そのまま政治を続けました。
これを見た上皇は、幕府を討つ計画を立て、しきりに武将を集めました。
1221年(承久三年)5月、上皇は鳥羽離宮の中の城南寺に、多くの兵を集めました。
その数は1700人あまりもありました。
上皇は京都守護伊賀光季を攻めるとともに、ただちちに、北条義時を討てという命令を全国に出しました。
こうして承久の乱が始まったのです。
政子はただちに御家人を集め、頼朝以来の幕府の恩をといて、団結して戦うよう誓わせました。
そして、義時の子泰時が大将となり、20万の大軍を率いて京都へ向かって出発しました。
幕府の大軍を木曽川に迎えた上皇方の軍は、たちまち破れてしまい先を争って逃げる有様でした。
ついで京倒都の宇治川、近江(滋賀県)の瀬田川で京都を守り抜こうとしましたが幕府の軍には適わず、総崩れとなりました。
これが承久の乱です。
承久の乱の後、幕府はこの乱を企てた者に、厳しい罰を与えました。
後鳥羽上皇は出家させられ、隠岐(島根県の一部)へ流され、ここで19年の長い月日を送り、60オで亡くなりました。
上皇の皇子の順徳上皇も、佐渡(新潟県の一部)に流され、土御門上皇は土佐(高知県)に流されました。
乱の前に順徳天皇から位を譲られて天皇になった仲恭天皇はわずか70日あまりで位から退けられ、後堀河天皇が位に就きました。
天皇はまだ10才の若さだったので、父の守貞親王が代わって政治を執ることになりました。
しかし、朝廷の力は、全く衰え、幕府の思うままに動く有様でした。
幕府は北条泰時と時房な京都の六波羅に残し、京都と三河国(愛知県の一部) より西の地方の政治を執らせることにしました。
この役所を六波羅探題といいます。
以後この職には、必ず北条氏一族の中で、執権に次ぐ有力な者がつきました。
六波羅探題は、京都にいる御家人を取り締まったり皇室を見張ったり、地頭や御家人についての裁判を行ったりしました。
六波羅探題は、幕府に背いたた貴族や武士の領地を取り上げましたがその数は3000か所あまりもありました。
幕府はこの土地を、手柄のあった御家人たちに与え、地頑として彼らを送り込みました。
これを新補地頭といい、承久の乱以前のものを本補地頭といいました。