今回は持明院統と大覚寺統について、日本の歴史を紹介します。


京都の皇室では後嵯峨天皇の後に、後深草天皇と亀山天皇のニつの血筋が天皇の位について争い、互いに幕府をたよるようになりました。

後嵯峨天皇の後に、まず長子の後深草天皇が位につきその次に弟の亀山天皇が位につきましたが、後嵯峨上皇が亡くなると亀山天皇は自分の子、後宇多天皇を位につけました。

そこで後深草天皇は不平を抱き、鎌倉幕府に訴えました。

幕府は、最もなことだと思い、後宇多天皇の次には後深草天皇の子の伏見天皇を位につけましたが、これに対して後宇多天皇方が、また不平を抱きました。

幕府は、後深草天皇方と亀山天皇方の皇族が代わる代わる天皇の位につくよう取り決めました。
後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。

両統は幕府の取り決めに、従うことになりました。

持明院統には、長講堂領という広い荘園が代々伝わっていきましたが大覚寺統には、それほどの荘園はありませんでした。

また、持明院統は代々鎌倉幕府に頼り、幕府と仲が上がったりですが大覚寺統は幕府とあまり中がよくありませんでした。

幕府と皇室の関係は、こんな有様でしばらく続きました。
室町時代になっても、持明院統が北朝となり、大覚寺統が南朝となって互いに争いました。
このように、皇族が二派にわかれて争うため、朝廷の勢いは、ますます衰えていきました。

こんな有様にも関わらず、この頃はたいへん優れた天皇があらわれました。

持明院統の後、伏見天皇は優れた人で、皇太子量仁親王に向かって政治をとる心構えを説いている言葉が、たいへん立派で読む人の心をうちます。

これは今でも「誠太子書」として、伝わっています。