今回は鎌倉時代の建築様式と肖像画や絵巻物といった美術品について、日本の歴史を紹介します。
鎌倉時代の建築には、天竺様と唐様の二つの建て方がありました。
奈良時代に建てられた東大寺は1180年(治承四年)平清盛の子の重衡のために焼かれてしまいました。
しかし、翌年には東大寺の再建が朝廷を中心として始められました。
そして、寺を造るお金を広く一般の信者から集める勧進職がおかれました。
この役には、浄土宗を開いた源空の弟子、重源が就きました。
重源は東大寺の再建にあたり、宋(中国) から持ち帰った天竺様という立て方を用いました。
天竺様は力強く、自由な変化にとんでいて大きな建物を少ない材木でつくるには最もよい方法です。
しかし、この建て方は、後の人々の好みに合わなかったのか同じ頃でた唐様ほど発展しませんでした。
天竺株の代表的な建物には、東大寺の南大門、兵庫県の浄土寺阿弥陀堂があります。
唐様は、禅宗にともなって、宋から入ってきた建築の方法です。
鎌倉の円覚寺舎利殿は、唐様の代表的な建物です。
唐様は天竺様の男性的な力強さと違い、手のこんだ美しさを備えています。
鎌倉時代には、肖像画が盛んになりました。
藤原隆信の描いた神護寺にある源頼朝の像や平重盛の像は名作として知られています。
平安時代に引き続いて、この時代も絵巻物が喜ばれました。
題材を神社や寺に伝わる伝説や物語などのほかに平治の乱や、元(蒙古)の来襲などからもとりました。
「平治物語絵巻」や「蒙古襲来絵詞」がそれです。
また、「一遍上人絵伝」や「法然上人絵伝」などのように宗派な開いた人の伝説を絵巻物にして、その宗派を広めるために使うことなどもありました。
奈良・平安時代に建てられた奈良や京都の多くの寺は1180年(治承四年)の源平の戦いによって、そのほとんどが焼かれました。
しかし、鎌倉時代に入ると、これらの寺の復興が盛んに行われるようになりました。
このため、これらの寺におさめる仏像がたくさん必要になり康慶・運慶・湛慶・康弁・快慶・定慶などの優れた彫刻家が次々とあらわれてその需要を満たしました。
彼らは武士の世にふさわしい逞しくて力強く活き活きとした木像彫刻を作り上げました。
運慶と快慶が、それぞれ一体ずつ彫り上げた東大寺南大門の金剛力士(仁王)像をはじめ興福寺に残る天燈鬼像・竜品燈鬼像・無著像・世親像慶や京都の三十三間堂にあるおびただしい仏像などはこの時代の代表的な作品です。
運慶は奈良の仏師(仏像の彫刻家)康慶の子で、鎌倉時代の最も優れた彫刻家です。
彼は、小さいときから父の教えを受けて彫刻家への道を歩みましたが当時の気力のない仏像彫刻に飽き足らず苦心の末力に溢れた新しい仏像彫刻の様式を生みだしました。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」によると奥州の藤原基衡は毛越寺を建てるとき、運慶に仏像づくりを頼みました。
そこで運慶は、薬師如来像と十二神将像を作り上げました。
基衡は、その立派な出来を喜んで馬50頭、アザラシの皮60枚あまり、美しい布数千反、そのほか、たくさんの品物を送ったということです。
和田義盛など多くの武将たちも、彼に製作を頼み運慶は、大彫刻家として名を挙げました。
また運慶は、東大寺南大門の金剛力士(仁王)像をつくりましたが、これは後世の仁王像の手本にされるとともに彼の名声から多くの寺に仁王像が、運慶作とされるようにさえなりました。