今回は法然と親鸞 禅宗、日蓮、時宗 鎌倉時代に生まれた新しい仏教について、日本の歴史を紹介します。
平安時代の末、源氏と平氏の激しい戦いが続きました。
人々はこうした騒がしい世の中に安心して生きていられる心の拠り所を仏教に求めました。
ところが、多くの僧たちは政治と結びつき、自分たちの勢力を伸ばすことたけを考え世の中の人を救おうとはしませんでした。
しかし、まじめな僧は寺を離れて、山村などで厳しい修行を積み仏の道に励みました。
鎌倉時代の新しい仏教は、そうした僧の間から生まれたのです。
そして、貴族ではなく武士や一般の人々に迎えられました。
平安時代の末、法然いう僧がでて、浄土宗を開きました。
一心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、救われるという教えです。
浄土宗の信者は、貴族や武士から一般の人々にも行き渡り、東海・北陸地方にまで、広がっていきました。
古い仏教の僧たちが浄土宗を非難したので、朝廷も黙っておれず、浄土宗を厳しく押さえつけました。
そのために、法然は讃岐国(香川県)に4年ほど流されました。
法然の弟子親鸞も、越後国(新潟県)に流されましたが、5年ほど経って許されました。
その後、親鸞は常陸国(茨城県)の稲田に住み、教えを広めました。
親鸞の教えは、法然の浄土宗を一歩すすめたもので、浄土真宗、またはたんに真宗とも言われます。
それまで、僧は肉を食べたり、妻を持つことは許されませんでした。
ところが親鸞は、肉な食べてもいい妻を持ってもいいとして自らも結婚しました。
彼は、民衆と同じ立場にたって、その上で、仏の道に励もうとしたのです。
親鸞は武士や一般の人々の心に、深い理解を持っていました。
彼らの中には、自分の犯した罪のために、とうてい救われないだろうと思っている人もありました。
武士が戦いに出て人を殺したり、猟師が生きものを殺したり商人が金儲けのために安い物を高く売りつけたりする罪を、親鸞は生きていくためには仕方の無いことだとしました。
そして、自分こそは本当の悪人だと深く悟れば救われると説きました。
親鸞の教えは、彼の書いた「教行信証」や、弟子が親鸞の言葉を集めて作った「歎異紗」などに載っています。
禅宗は宋(中国)から伝えられたもので、栄西が伝えた臨済宗と、道元が伝えた曹洞宗のニつがあります。
栄西は二度も宋に渡り、5年間修行して、1191年(建久二年)日本へ帰ってきました。
そして、博多に留まって臨済宗の教えを説きました。
栄西はまた、幕府の助けを借りて、京都に建仁寺を建てました。
道元は建仁寺に栄西を訪ね、教えをこいました。
そして、1223年(貞応一年)宋に渡り、厳しい修行の後、日本へ帰ってきました。
道元は、1243年(寛元元年)、越前国(福井県の一部)に移り、永平寺を建てて教えな広めました。
道元は立派な社会をつくる理想を持っていました。
そこで、僧たちの行いを厳しく取り締まり、仏の教えを、しっかりと守らせました。
禅宗の教えや修行は、非常に厳しいため武士たちの生活に良く合い、広く信じられました。
臨済宗は北条時頼や北条時宗のような上流武士にまで広がり、曹洞宗は、主に地方の豪族の間に迎えられました。
日蓮は鎌倉や比叡山で仏の道に励んでいましたが法華経たけが本当の教えだと信じるようになりました。
日蓮は「南無妙法蓮華経」を唱えて、法華経を世に広めたらこの世の人を救うことができると考えました。
日蓮は、.禅宗や浄土宗を間違った教えだとして、これらの教えの広がっている国々は、必ず災いが起こると予言しました。
そのため、日蓮は他の宗派のものや幕府から圧迫を受け襲われたり、島流しにされたりしました。
佐渡へ流された日蓮は、そこでも多くの信者を得ました。
1274年(文永11年)、許されて帰った日蓮は、法華宗(日蓮宗)を広めました。
法華宗の信者は、初めは上流の武士が多かったのですが領主のすすめで、農民にも信者が増えていきました。
商人や職人の間に日蓮の教えが信仰されるようになるのは、室町時代になってからです。
浄土教の1つである時宗を始めた智真は、一遍上人の名で知られています。
一遍は、シャカが定めた僧としての行いを厳しく守り住所も定めず、ほうぼうを歩き周りました。
一遍は、全てを捨て、命を投げ出して一般の人々を救おうと決心しました。
そして、自分の家や田を手放して、全国いたるところ、足の向くまま歩き周り、人々に念仏をすすめました。
一遍の信者は次第に増え、彼とともに念仏を唱えながら集団となつく各地をまわりました。
こうして、信者は武士・農民・商工業者のべつなく広がりました。
鎌倉時代の終わり頃から室町時代にかけて、浄土教のいろいろな宗派の中では、時宗がもっとも勢力がありました。