今回は建武の新政について、日本の歴史を紹介します。
後醍醐天皇はまもなく京都に帰り公家(貴族)と武家とを一つにまとめて新しい意気込みで天皇中心の政治を行おうとしました。
次の年、年号を建武と改めたので、この新しい政治を建武の新政といいます。
後隠醐天皇は、摂政や関白をおかず、自ら政治を行おうとしました。
そのため、記録所と雑訴決断所・恩賞方という役所を設けました。
記録所は一般の政治を扱うところ雑訴決断所は、主に土地についての訴えを裁判するところまた恩賞方は人々の手柄を調べ、どのような褒美を与えたらよいかを決めるところです。
これらの役所の役人には、公家も武家も同じように用いました。
また、京都を守る武者所の長官には新田義貞が征夷大将軍には護良親王がなりました。
地方の国々には、国司と守護の両方をおき、これまでと同じように地頭もおきました。
そして、手柄のあった人々には褒美として、これらの役を与えました。
また、関東や東北地方には特に力を入れ、後醍醐天皇の皇子と一緒に、関東には尊氏の弟足利直義を東北には北畠親房の子の顕家をつかわして治めさせました。
このようにして、新政は盛んな意気込みで出発したのでした。
しかしこの新政は、わずか二年半しか続かず失敗してしまいました。
後醍醐天皇の狙いは政治を平安時代中頃の天皇中心の政治に戻すことでした。
しかし、時代は武家政治が、だんだん固まっていく方に流れていました。
この時代の流れを逆にして、遠い昔に戻そうとするのは元々無理なことです。
新政が失敗した最大の原因はここにあるのです。
しかも、その他にもいろいろ原因がありました。
鎌倉幕府を倒すとき、味方についたものには褒美の土地をやると、天皇は約束していました。
武士の中には、この褒美を目当てに味方になったものが少なくなかったのです。
ところが土地をやろうとしても、北条氏から取り上げた土地しかないのでとても足りません。
その上、公家の方が武士に比べて、多くの土地を貰い土地の裁判でも公家の方が武士より有利でした。
そこで武士たちは当てが外れ新政に不満を持つようになりました。
天皇は、公家と武家とを仲良く一つにまとめようと考えていました。
しかし、これまで長い間、睨み合ってきた公家と武家とは、そう簡単には仲良くならず、お互いに馬鹿にし合っていました。
しかも、同じ武士の間でも、いろいろな睨み合いがありました。
足利尊氏と新田義貞は、お互いに勢いを競い合いまた古い家柄の武士たちは、新しく出世した楠木正成や名和長年らを快く思っていませんでした。
ことに、足利尊氏は自分が征夷大沢将軍になれなかったことを不満に思っていました。
こうして武士たちは、足利尊氏を中心として新政に不満を持つ組と護良親王や新田義貞を中心として新政に力を合わせていこうという組との二つにわかれてしまいました。
これでは新政が上手くいくはずがありません。
その上、天皇は皇居をたてようとして、武士に重い税をかけました。
このため、武士は一層不満を抱き、もとの幕府の武家政治の方が、ずっとよかったと思うようになりました。
このような武士たちの気持ちを上手く掴んで征夷大将軍になろうとしたのが足利尊氏です。
1335年(建武二年)、北条高時の子の時行が兵をおこし鎌倉に攻め込んで、足利直義の軍を負かしてしまいました。
そこで尊氏は、「自分を征夷大将軍にして、関東に応援にやらせてください」と天皇に頼みましたが、天皇は許しませんでした。
ところが尊氏はこれを聞かず、勝手に関東へ下ってしまったのです。
これを見た、新政に不満を武士たちはわれがちに尊氏についていってしまいました。
関東に下った尊氏は、弟の直義とカを合わせて時行の軍を破りました。
この事件を中先代の乱といいます。
このあと尊氏は、多くの武士たちを従えて、ぐんぐん勢いを強めていきました。
後醍醐天皇は、この勢いを見て、新田義貞に尊氏兄弟を討てと命令しました。
ところが、義貞の軍は、箱根山(神奈川県)の戦で負けて逃げ帰り、逆に、尊氏の軍がこれを追いかけて京都に攻め上っててきました。
そこで、後醍醐天皇は、いちじ比叡山(京都府・滋賀県)に移り尊氏の軍が、代わって京都に入りました。
ところが、今度は北畠顕家が東北地方の軍勢を率いて応援に来たので尊氏兄弟の軍は敗れて遠く九州まで逃げました。
しかし、尊氏兄弟の軍は、まもなく九州・四国・中国地方の武士を従え勢いを盛り返して、海と陸からまたも都へ攻め上ってきました。
天皇側は、新田義貞と楠木正成の軍がこれを迎えて、勇ましく戦いました。
けれども、戦いは尊氏の軍の勝ちとなり、正成は兵庫の湊川(神戸市)で討ち死にしてしまいました。
こうして京都は、再び尊氏のものとなったのです。
そこで足利尊氏は、後醍醐天皇を花山院に押し込めて光明天皇を位につけ、幕府を開いて再び武家政治を初めました。
こうして、建武の新政は、わずか二年半続いただけで、失敗に終わってしまったのです。