今回は南北朝時代について、日本の歴史を紹介します。

尊氏に押し込められた後醍醐天皇は、隙を見て京都を抜け出し、吉野(奈良県)に移って、ここに皇居を定めました。

この結果、吉野の朝廷(南朝)と、尊氏の建てた京都の朝廷(北朝)とニつの朝廷が出来てしまいました。
そして、これからおよそ60年間、ニつの朝廷は争い続けるのです。

そのため、この時代を南北朝時代ともいいます。
しかし、これは実際には、南朝と北朝というニつの朝廷の間の戦いではないのです。

つまり、天皇中心の公家政治に戻そうという古い力と武家治を推し進めようという新しい力の戦いだったのです。

1336年(建武三年)足利尊氏は建武式目を定め二年後には、征夷大将軍になって幕府を開きました。
そして、足利氏の幕府は勢いを強めていったのです。

それに反して、南朝の方では、新田義貞・北畠顕家らが次々と戦死し後醍醐天皇も吉野でなくなり、その勢いが振るわなくなりました。

しかし、そののち南朝側も、かなり勢いを取り戻しました。

というのも、吉野では北畠親房や楠木正成の子の正行が、南朝のために力を尽くし、また、九州では懐良親王が活躍したからです。

しかも、丁度そのころ、尊氏と直義との仲が悪くなり足利氏に内輪もめがおこりました。
このような乱れに漬け込んで南朝の軍が京都の近くにまで勢いを盛り返したこともありました。

しかし、それも長くは続かず、頼みとする楠木正行は四条畷(大阪府)で戦死してしまい北畠親房も吉野の奥の賀名生(奈良県)で死んでしまいました。

そして・南朝の勢力は、吉野・熊野地力たけにしか及ばないようになってしまったのです。
この南北朝の戦いに漬け込んで武士たちことに守護たちは勢いを伸ばしていきました。

彼らは、公家や神社・寺院などの荘園を勝手に奪い取り自分の預かっている国の武士たちを家来にして、ぐんぐん勢カを伸ばしていきました。

これぼ、荘園の持ち主たち、つまり公家や神社・寺院にとっても困ったことでした。

またも足利氏にしても、困ることです。

足利氏は、このような有様を抑えるためにも南朝と仲直りしたいと考えていました。
そして、ついに1392年(明徳三年)、尊氏の孫の義満のとき南北朝の仲直りが出来たのです。

南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松会天皇へ天皇の印を表す三種の神器が譲られて、朝廷が一つにまとまりました。

こうして、60年近く乱れた世の中はやっと治まりました。

そしてこの後、朝廷や公天家は政治の上では、全く力が無くなり鎌倉時代から続いてきた、公家(天皇や貴族) と武家の政治の争いは終わって武家政治一本になったのです。

足利尊氏と天龍寺

太平洋戦争のころ、足利尊氏はたいへんな悪人のように言われていました。

というのも、尊氏が南朝の後醍醐天皇に背いたからです。
しかし、本当は気立ての優しい正直な人だったようです。

後醍醐天皇に背き、天皇を寂しく吉野で死なせたことが尊氏には悪いことをしたように思え、気になってならなかったのです。

そこで、尊氏は夢窓疎石という宗の僧と相談して天皇の魂を慰めるために天龍寺という寺を京都の嵐山の近くに建てることにしました。

しかし、その頃は戦いの続いた時代だったので寺を建てる費用も充分ではありません。
そこで元(中国) に天龍寺船という貿易船を送ってその儲けを天龍寺建築の費用にあてたりしました。

また昔、褒美に貰った荘園を寄付したりしました。
尊氏は夢窓疎石と2人で、天龍寺の土台工事の土運びをしたとも伝えれています。

今も、尊氏の描いた地蔵様の絵が残っていますが、これは、自分の犯した罪をくいて、描いたものと思われます。

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