今回は室町時代の守護大名の勢いについて、日本の歴史を紹介します。
守護大名の勢い
足利尊氏は、豪族たちが南朝につくのを防ぐため彼らの機嫌を取ろうとして、どしどし土地を与えたり褒美に守護や地頭の役を与えたりしました。
また、守護が貴族や神社や寺の荘園を奪ったり年貢を横取りしたりするのを黙って見ないふりをしていました。
そのため、守護は広い土地を自分のものにしていきました。
ことに守護たちは、幕府が戦争で手が回らないのをよいことに自分の収めている国の武士たちを家来にし、その国を自分の領地のようにしてしまいました。
鎌倉時代の守護は、主にその国の警察の仕事や御家人の取り締まりをするだけでした。
ところが、この時代の守護は国内の地頭を家来にし、警察の仕事ばかりでなく、それまで国司のしていた仕事までやるようになったのです。
つまり、名前は守護ですが実際には、その国の領主のようになってしまったのです。
こういう守護を守護大名といいます。
これらの守護大名のうちには山名氏のように、11カ国の守護をかね大内氏のように六か国をがねるほど強大なものもありました。
細川氏なども、多くの国々の守護をかねていました。
それに、これらの守護大名は、細川氏が管領になり山名氏が侍所の長官になるというように代々幕府の大切な役につきました。
そのため守護大名の勢いは、ますます強くなり、ついには将軍の手に負えなくなってきました。
将軍と守護大名
守護大名がこのように強いことは幕府にとって大変困ることでした。
そこで義満は、1391年(明徳二年)に山名氏を討ち(明徳の乱)、さらに1399年(応永六年)に大内氏を討って(応永の乱)幕府の勢いを強めました。
これで、守護大名は、暫く幕府のいうことを聞くようになりました。
しかし、六代将軍義教のころになるとまた彼らの勢いが強くなりました。
そのうえ、鎌倉府の長官である足利持氏までがもとは同じ足利氏の出であるにも関わらず将軍の命令を聞かず、幕府に手向かう様子さえ見せました。
そこで、1439年(永享11年)将軍義教は、兵を遣わして、これを滅ぼしてしまいました。
これを、氷享の乱といいます。
義教はまた、四職(ししき)の家柄である一色氏を滅し、さらに勢いにのって、赤松氏をも、押さえつけようとしました。
ところが義教は、かえって赤松氏に殺されてしまいました。
義教が殺された後、やっと8才になったばかりの少年の義勝があとを継ぎました。
しかし、義勝はまもなく死んでしまいそのあと、小さな弟の義政が将軍になりました。
けれども、将軍はもう飾りものにすぎません。
そして、以前、義満に討たれた山名氏も大内氏も勢いを盛り返しました。
そればかりか、義教を殺しために一度は、討たれた赤松氏までもやがて勢いを盛り返してきました。