今回は室町時代の学問と教育について、日本の歴史を紹介します。
学問と教育
この時代は、戦争で騒がしい時代でしたから、学問も教育もあまり盛んではありませんでした。
しかし、貴族たちの間には、「源氏物語」や「古今和歌集」などを調べる学問がおこりました。
また、禅僧の間では、中国の学問、ことに儒学の一派である朱子学の勉強が盛んになりました。
武士の中にも、学問や教育に力を入れるものが出てきました。
山口の大内氏、鹿児島の島津氏などが、そのよい例です。
ことに、関東管領の上杉憲実は、下野国(栃木県)の足利学校を盛んにしました。
足利学校で学んだのは、僧だけですが彼らは、やがて地方に帰って、学問や教育を広めました。
戦国時代になると、大名や武士の子どもは寺に行き、僧から読み書きなどを習いました。
これが、江戸時代に入って盛んになる、寺子屋のはじめです。
また、京都・奈良・堺などの豊かな商人も学問をしその子どもを、寺で勉強させるようになりました。
太田道灌
太田道灌は江戸城を築いたことで有名ですが、学問もでき、文学をもこりんだ武将でした。
あるとき、道灌は狩りに出て雨にあいました。
そこで、近くの家にいた少女に雨具を貸してくれるように頼むと少女は、雨具の代わりにヤマブキの花を差し出したのです。
道灌は不思議に思いましたが、そのまま帰りました。
少女は、道灌に七重八重花は
さけども山ぶきの
実の一つだになきぞかなしき
という歌のことを、わかってもらおうとしたのです。
この歌の意味は「ヤマブキには花が一杯咲くけれど、実の一つもないのは残念なことです。それと同じょうに私もあなたに差し上げる、みの(雨具の一種)さえもっていないのは、残念です」というものです。
道灌は、この歌を知らなかったのです。
彼は、これをたいへん恥ずかしく思い、それから、和歌の勉強を始めたということです。
これは、本当の話かどうかわかりませんが、道灌が熱心に和歌を作ったのは本当のことです。