今回は足利義満の金閣、足利義政の銀閣について、日本の歴史を紹介します。

足利義満と金閣

足利義満は、室町幕府が、最も安定したときの将軍でした。
彼は、京都の北山に大層豪華な別荘を建てました。

この一部が、北山文化を代表する建物である金閣(今は鹿苑寺の中の1つの建物)です。
金閣は、三層からなる建物でその内外に金箔が張ってあったため、金閣と呼ばれました。

しかし、おしくも1950年に放火されて焼けてしまいました。
現在のものは1955年に再建されたものです。

足利義政と銀閣

将軍足利義政は、政治を人任せにし応仁の乱で人々が困っているのも知らぬ顔でした。
そして、応仁の乱が終わるとすぐ京都の東山に、立派な別荘を建てました。

今も、慈照寺の観音殿として残っている有名な銀閣は、その別荘の一部だったのです。

銀閣は、潮音閣と呼ばれる書院づくりの一階と心空殿と呼ばれる仏殿風の二階の、二層からなる建物で表面に銀箔を貼る計画であったため実際には貼られませんでしたが、銀閣と呼ばれました。

義政は、このように将軍としては落第でしたが、たいへん芸術を好み、優れた芸術家を大切にして東山の別荘で風流な生活を送りました。

そのため、戦争の多い、落ち着かない時代であったにも関わらず義政の時代には、建築・庭園・茶の湯・生け花などがたいへん発達しました。

しかも、これらはみな、このころ盛んであった禅宗の影響を受けて、静かさと奥ゆかしさを重んじるものでした。

それで、義政を中心に栄えたこの時代の文化のことをとくに東山文化といっています。

書院づくりとは

書院というのは、もともとは読書をする部屋のことで、ことに、禅宗の寺の中につくられました。
この禅寺のつくりを取り入れた家の建て方が、書院づくりです。

書院づくりは、義政のころからおこりまず、将軍や大名の住まいに用いられました。
書院づくりでは、建物の正面に玄関をつくり、奥のほうに書院の間を設けます。

書院の間には、床や違い棚をつくり、ふすまや障子で、部屋の区切りをし床には、いつも畳を敷いておきます。

そして、普通、床の間には掛け軸をかけたり、花を生けたりし、ふすまには、絵が描かれました。



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