今回は室町時代に盛んになった墨絵と茶の湯について、日本の歴史を紹介します。
墨絵と雪舟
平安時代の末頃から、美しい色どりをした日本風の大和絵がおこってきましたが室町時代になると、それが衰え、代わって中国風の墨絵が盛んになってきました。
墨絵というのは、墨以外の色は使わず墨の線と、濃い薄いの調子だけで深い味わいを出す絵です。
これは、中国の宋の時代(960年~1279年)におこったものです。
その後、禅宗と一緒に、我が国に伝わり南北朝時代から、墨絵を描く禅僧が、現れてきました。
墨絵の名人として、まず有名になったのは周文で、やがて雪舟があらわれました。
雪舟は子どものときから絵が得意で1467年(応仁元年)、明に渡り、絵の勉強をしました。
そして、日本へ帰ってからは大内氏などの助けを受けて、たくさんの優れた絵を描きました。
また、雪舟より少し遅れて、狩野元信があらわれ中国風の墨絵に、大和絵の描き方を取り入れて、日本風の墨絵をおこしました。
これが狩野派です。
狩野派は、やがてたいへん栄えるようになります。
茶の湯
茶を飲む習わしは、中国の影響を受けて鎌倉時代から禅僧の間におこりました。
やがてこの習わしは、貴族や武士の間にも広まり南北朝の頃になると、茶を飲む集まりが盛んに行われてきました。
しかし、室町時代の初め頃までの茶会は贅沢で、派手で騒がしいだけのものでした。
それを、静かで落ち着きのある茶会に改めたのが、足利義政です。
しかし、義政の茶会のやり方には、まだ贅沢さが残っていました。
これを禅宗の教えに基づいて改めたのが村田珠光です。
彼は、茶会を質素な内にも、深い味わいのあるものにし四畳半の茶室を作り大体、今のような茶の湯の決まりを定めたのです。
そして、これから後、茶の湯は、奈良・京都・堺などの金持ちの商人や、戦国大名の.間で、たいへん盛んになりました。