今回は住まいの歴史 無土器時代から奈良時代の世の中について、日本の歴史を紹介します。

日本に、人間が住み始めた頃の住まいは、どんなようすだったのでしょうか。

今から一万年以上ち前頃、人々が石器だけを使用していたといわれる無土器時代の住まいの様子は最近いろいろ研究されていますが、まだはっきりしたことは、わかっていません。

縄文時代の住まいは、大体は竪穴式住居であることがわかってきました。
地面を少し掘り下げてそこに四本から六本の柱を建て草や穂で屋根をふいたものです。

まだ鉄器のなかった時代ですから石斧で穂を切り出して住居を建てるには、想像も出来ないほどの苦心があったことでしよう。

床には、枯れ草を敷いたり竪穴を掘らずに、石を敷いてあるものもああります。

弥生時代になると、農業生活が初まりましたので竪穴式住居の屋根には、藁なども使われるようになりました。

床が地面よりずっと高い住居や倉庫などもあったらしく今の神社や、奈良の正倉院などの建物に、その名残が残っています。

この高床式の建物は、今の南方地方で多く見られますから南方から伝わり、竪穴式住居は今のエスキモーり氷の家に似ているので北方から伝わったものと考えられます。

弥生時代から古墳時代にかけて、金属の道具ができましたので住まいの建て方も大きくかわりました。

この頃は、主に農業を営み生活にあう家を考え土間を中心にして、床板も掘らず部屋の仕切りも、畳や、戸や、障子もありません。

これを農本住宅と言っている学者もあります。

しかし、豊かな人と貧しい人の違いができるようになり多くの人々を支配した豪族たちは農本住宅と別な型の古代住宅を建てていました。

これらの型は「家屋文鏡」と呼ぶ文様(もよう)のある鏡や家の型をした埴輪などに見られます。
その種類は、屋根の型でわけられ、切妻づくり・寄棟づくり・しろこぶきづくりの形があります。

古代住宅には、母屋と思われる立派な家と倉や納屋と思われる建物などもあります。

奈良時代ごろになると、世の中の仕組みも大きくかわり都に住む貴族の住宅と、地方に住む農民の住居は、はっきり違ってきました。

奈良時代の貴族の住まいとしては聖武天皇の夫人橘古那加知の住宅であったと伝えられるものが今、奈良の法隆寺に伝法堂といわれて残っています。

周りに、濡れ縁がめぐらされ、家の中には居間と寝間があり、居間の前は広い板敷になっています。
屋根は今、瓦ぶきになっていますがもとは、ひわだ(ヒノキの皮)ぶきの切妻づくりであったようです。

これは1つの例ですが、ほかの貴族たちも、たぶん、これに似た住宅に住んでいたことでしょう。
この他、寄棟づくりや、入母屋づくりの屋根もありました。

平安時代になると、貴族はますます栄え寝殿づくりといわれる贅沢な住宅に住みました。
京都の清涼殿や宇治の平等院などは今も残っています。

しかし、このような寝殿づくりは全ての貴族がつくったわけではなく身分のあまり高くないものは、もっと質素な住宅に住んだことでしょう。

一般の人たちの住まいは、農本住宅から、あまりかわっていなかったようです。

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