今回は戦国大名とは? 領内の開発について、日本の歴史を紹介します。
戦国大名
応仁の乱をさかいに、それまで勢いの強かった守護大名は、相続く戦いの中で次々に倒れていきました。
これに代わって、その家来であったものが各地に領国を打ち立てて、戦国大名となります。
しかし、中には守護大名が、そのまま戦国大名に、かわっていったものもいました。
主な戦国大名としては小田原(神奈川県の一部)の北条氏甲斐(山梨県)の武武田氏・越後(新潟県)の上杉氏、尾張(愛知県の一部)の織田氏、三河(愛知県の一部)の徳川氏、安芸(広島県の一身部)の毛利氏、薩摩(鹿児島。県の一部)の島津氏などがありました。
領内の取り締まり
このような戦国大名は、室町時代の初めの守護大名のように荘園の経済に頼ろうとはしませんでした。
それどころか、かえって荘園制度を武力で押しつぶし農民たちを直接、自分の支配下におきました。
こうして領国を作り上げた戦国大名は他の誰からも指図を受けず完全な独立国の主人のようになりました。
しかし、それだけに、武力を強め立派な政治をしなければ、いつ自分が滅ぼされてしまうかわかりません。
そこで、戦国大名は、家臣(けらい)たちを力強く取り締まるとともに、鎌倉幕府の貞永式目の例にならって、領国の法律や家訓を定めました。
これを家法とか壁書などといっています。
大内氏の「大内家壁書」・伊達氏の「塵芥集」、今川氏の「今川仮名目録」、武田氏の回「信玄家法」、朝倉氏の「朝倉敏景十七箇条」・北条氏の「早雲寺殿廿一箇条」、長曽我部氏の「長曽我部元親百箇条」などが、それにあたります。
これらの家法や壁書によると領主である戦国大名の権力はたいへん強く家臣や領民の命や財産は、ひとりの領主に握られていたことがわかります。
領主の命令に背いたものは、例え殺されても領内から追い払われても、文句が言えません。
領主の一族が結婚する場合も家臣が家を継ぐとき、いちいち領主の許しが必要でした。
鎌倉時代の貞永式目では女性の地位がかなり高く認められていましたが戦国大名の法律では、女性の地位は低いものでした。
財産もわけてもらえず、男性より低くみられ都合次第で、勝手に、他所へ嫁に出されてしまいます。
また、領内に騒ぎがおこるのを防ぐために喧嘩がおきても、言い分を聞かずに喧嘩両成敗と言って両方とも罰しました。
重い罪を犯した場合いにはその人だけでなく、一族や、その家来までも、罰せられました。
これを連座といいます。
刑罰のやり方も大層厳しくどしどし死刑が行われました。
死刑にも、様々あって張り付け・のこぎりびき・串刺しなど名前を聞くだけで、ぞっとするような残酷なやり方をしています。
領内の開発
戦国大名は、領内の取り締まりを厳しくするとともに、その経済を豊かにするために産業の発達に力をいれました。
まず、荒地を切り開き、耕地を広げました。
それから、金山や銀山などの鉱物資源の開発にも力を入れました。
また、領国の政治・経済・軍事の中心地である城下町を栄えさせるために、いろいろと、工夫を凝らしました。
まず、商工業者を荘園の領主であった貴族や神社・寺院から切り離して城下町に呼び集めるために、これまでの座とは違った、楽市・楽座の制をつくりました。
それまでの座の制度だと、商売ができるのは、座に入っている者だけでした。
しかも、商売をするためには、いろいろな税を荘園領主に納めなければなりません。
それが、楽市・楽座では、税を治める必要もなく誰でも商売ができました。
その他、いろいろと保護を加えたので商工業者は、喜んで城下町に集まってきました。
また、大名たちは神仏を信仰していたので近くにある神社や寺を城下町の一部に移して土地を与えました。
その結果、寺町まで出来ました。
これらの城下町は、その後織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のために全国が統一されてからもいよいよ栄え地方の代表的な都市として発展していきました。