今回は土一揆とは? 一向一揆・山城国一揆について、日本の歴史を紹介します。

諸国の大名

戦国大名は、領内の政治に力を入れるとともに、たえず武力を蓄え、隙があれば、ほかの大名を滅ぼして
領土を広げようとしました。

18世紀の半ばを過ぎて、室町時代も終わりに近いころになると、これらの争う大名のうち弱いものは滅び、強いものだけが残ってきました。

これらの大名のうちから有名な人を2、3あげてみましょう。

北条早雲

北条早雲は、もと伊勢長氏といって伊勢国(三重県の一部)の関氏の一族でしたが家は落ちぶれ、浪人をしていました。

彼は、そこから駿河国(静岡県の一部)に移って守護の今川義忠のところに、留まりました。
そして、隙をみて、堀越公方(関東管領の子孫)を滅し伊豆(静岡県の一部)一国を平らげたのです。

彼は、さらに箱根山(神奈川県)を越えて小田原城を奪い、相模国(神奈川県の一部)を手にいれ北条早雲と名乗りました。

早雲は領内の政治に心をくばり「早雲寺殿廿一箇条」という家法まで定めました。

早雲の孫の氏康は、さらに関東地方に乗り出し安房(千葉県の一部)の里見氏を下総の国府台(千葉県)で破りました。

また、自ら関東管領を名乗っていた上杉氏の軍を武蔵の川越(埼玉県)で破っています。

氏康は、さらに越後(新潟県)の上杉謙信や甲斐(山梨県)の武田信玄などとしばしば戦い、その武名をあげました。

武田信玄と上杉謙信

武田信玄は、甲斐の守護の家に生まれました。
彼は、外交にも領内の政治にも特に秀れその上、戦上手でした。

甲斐は狭い山国だったので信玄は領土を広げようとして信濃国(長野県)に攻め入りました。
そこで、この国の大名たちは越後の上杉謙信に助けを求めたのです。

謙信は、求めに応じて、兵を率い川中島(長野県の千曲川と犀川が合流する地点にある三角州)に出て決戦を交えました。

上杉謙信は、もと長尾景虎といって関東管領を名乗っていた上杉氏の家来でした。

後に、山内上杉憲政から上杉の苗字を貰い受け上杉景虎と改めました。
彼はまた、謙信とも名乗っています。

謙信は、はじめ小田原の北条氏を攻める予定でしたが信濃の大名たちに救いを求められたので予定を代えて川中島まで出かけたのです。

彼は、人に頼まれれば、後には引けない性格だったのです。

謙信と信玄は、川中島で四度まで勝負を争いましたがどちらも強かったので、とうとう引き分けに終わってしまいました。

これを川中島の戦いといいます。

毛利元就

毛利元就は、安芸国(広島県の一部)の吉田の地頭で、はじめ、周防国(山口県の一部)の大名大内義隆に、従っていました。

しかし、義隆が家臣の陶晴賢に滅ぼされるとこの敵を討とうとして、謀を巡らし晴賢の軍を安芸の厳島(広島県)に誘き出して、打ち破ってしまいました。

元就は、こうして、大内氏に代わって周防・長門(山口県の一部)・安芸の三国を手にいれることになったのです。

元就は、さらに出雲国(島根県の一部)の守護尼子氏を責め滅し、中国地方で一番大きな大名に成り上がったのです。

元就は、子孫に、これ以上むやみに戦をせず領土を安全に守っていくようにと諭しました。
それで、毛利家はこのあと長く無事に栄えました。

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