今回はマルコ=ポーロと東方見聞録について、日本の歴史を紹介します。
アジアへの関心
黄金、金、この光り輝いている美しい金属。
極古い時代から人間は金に憧れてなんとかして少しでも手に入れようと、いろいろ苦心しました。
ヨーロッパでは、錬金術といってなんとか人間の力で金を作りだそうと手品師のような学者たちが、知恵を絞り工夫を凝らしました。
けれどもそれは、もちろん無理な相談でした。
ジパング、つまり日本へ行けば、その金がいくらでも、わけなく手に入るというように書きたてたのがベネチア(イタリア)生まれのマルコ=ボーロでした。
ヨーロッパ人は、その日本へ是非言ってみたいと思うようになりました。
十字軍の遠征のお陰でアジアの様子は、だんだんとわかってきていましたし金の他にも、アジアには様々な欲しいものがありました。
中国の絹・インドの木綿・熱帯地方の宝石や香料(胡椒やニッケイの類)などのどから手が出るほど、欲しいものはあっても途中トルコ人がいて高い税をとります。
なんとか、トルコ人のところを通らずに直接アジアへ出て言って思いきり欲しいものを持って帰りたい出来ることなら、日本へも行ってみたい、こう考えるようになってきたのです。
マルコ=ポーロと「東方見聞録」
マルコ=ポーロは、1254年イタリアのべネチアに生まれました。
ポーロは父や、おじと一緒に元(中国)に渡りクビライに仕えました。
クビライと、いうのは、元のときの中国の皇帝です。
ポーロは特に話が上手で、大層皇帝の気に入り20年間も、クビライに仕えました。
やっと許しが出て、べネチアに帰ったところを戦争に巻き込まれ、牢屋に入れられてしまいました。
「東方見聞録」という本は、その時昔を思いだして書いたものです。
「ジパンク(日本)では、屋根が金でふいてある。天井も金、机も金、庄も金でできている。」などと書いてあり、ヨーロッパ人のアジアへの関心を高めるのに、大きな役割を果たしました。