今回はヨーロッパ人のアジア進出 新航路の発見について、日本の歴史を紹介します。
新航路の発見
15世紀の中頃から日本へ行きたいという臨みを特に強く持ったのが、スぺイン人とポルトガル人でした。
両国民とも、この頃から急に元気付き海外発展の気風が高まってきたのです。
スぺインでは、イサべラ女王が後押しをしポルトガルでは、エンリケ王子が航海王と言われるほど航海に熱心でした。
王子は、航海の学校を建てたり自分で海図を作ったりして航海を奨励しました。
その上、羅針盤が発明され、天気が悪くても方角がはっきりわかるようになり、また、大きな船をつくる技術もこのころ急に進歩しました。
地球は丸いのだから、東へいっても西へいっても結局、元に戻れるし、インドや日本に行けるのだという考えも、人々の間に広がってきましました。
それから暫くは、ポルトガルは東まわり、スペインは西まわりとまるで、早回り競争のような、探検航海の大事業が続ききました。
ヨーロッパ人のアジア進出
まず、東まわりのポルトガル人はアフリカ西海岸をだんだんと南に下っていきました。
1484年には赤道を越え、1486年には、バーソロミュー=ジアスが初めてアフリカの一番南の橋に着きました。
ポルトガルのジョアンニ世は喜んでこの岬を「喜望峰」と名付けました。
バスコ=ダ=ガマは、この跡を継いで喜望峰をまわり、ペルシア湾を渡って1498年、ついにインドのカリカットに着きました。
このようにして勢いにのったポルトガル人は今までいばっていたアラビア人を負かしてインドの貿易を独り占めにしたのです。
そして、インドのゴアを根城にしマライ半島のマラッカを取り、香料で有名なモルッカの島々を探検しました。
さらに、中国の南にあるマカオを借り受けここで明(中国)との貿易をはじめ、とうとう日本の種子島につくことになります。
一方、西まわりのスペインはどうかと言えばその一番乗りはコロンブスです。
コロンブスは、西へ向かって進めば、きっとインドや日本へ行けると考えました。
イサべラ女王の助けを借り1492年スぺインのバロス港を出て70日目に、西インド諸島に着きました。
コロンブスは喜びのあまりここを「サンサルバドル島」と名付けました。
サンサルバドルというのは、「聖なる救い主」という意味です。
コロンブスは、4回航海を繰り返しパナマ地峡のあたりまで探検しました。
けれども彼は死ぬまで、自分がインドや日本の近くにきたものと信じていました。
この他にも、西まわり方面では、イタリア人のカボットがイギリス王の命令で、北アメリカを探検しポルトガル人のカブラルは南アメリカのブラジルに流れ着きました。
それで、ブラジルはポルトガル領になりました。
ついで、アメリゴ=べスブッチもブラジルを探検して大陸の地理を詳しく書きました。
これがもとで、彼は新大陸の発見者と間違えられ新大陸はアメリカと名付けられました。
また、ポルトガル人のマゼランはアメリカ大陸の一番、南の橋に着き海峡を抜けて太平洋に出ました。
この海峡は、彼の名前を取ってマゼラン海峡といいます。
マゼランはさらに進んで、フィリピンに着きました。
彼は、気の毒にも、ここで土人に殺されてしまいますが部下の人たちはさらに西に進みとうとう、1522年に本国のスペインに戻りつきました。
ここに、世界一周の大事業が成し遂げられ地球の丸いことが、事実として証明されたのです。
なお、スぺイン人は、メキシコを征服しフィリピンも我がものとしました。
こうして、スぺインとポルトガルは世界の各地に植民地をつくり、お互いに入り乱れて争いました。
彼らは、日本へ来てからも、お互いに邪魔を仕合いました。
ポルトガルの後押しで日本に来たイエズス会(キリスト教の一派)の宣教師とスペインの進めで日本へ来たフランシスコ会(キリスト教の一派)の宣教師とは教えを広める方法について意見が合わず結局、そのどちらも、日本にいられないような結果になってしまうのでした。