今回は織田信長が室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺との関係について、日本の歴史を紹介します。

室町幕府を滅ぼす

足利義昭は、長の力で将軍になったので、はじめの内は信長を父と呼んで尊敬していましたが信長の勢いが日増しに盛んになるのを見て、たいそう不安に思うようになりました。

また義昭は、将軍として信長の上に立とうとしましたが信長はそれを認めようとしませんでしたので義昭は、ついに信長の敵の大名たちの力を借りて信長を倒そうとしました。

信長は幾度も義昭を諌めましたが、その気持ちを改めようとしないので1573年(天正元年)に、とうとう義昭を京都から追い払いました。

200年あまり続いた室町幕府もこれで滅びたわけです。

比叡山と石山本願寺

しかし全国統一を目指す信長の前には、まだまだ、たくさんの強い敵がありました。

越後(新潟県の一部)の上杉謙信や甲斐の武田氏をはじめ越前(福井県の一部)の朝倉、近江(滋賀県)の浅井、中国の毛利、四国の長曽我部氏など、どれも強い大名でしたが、寺や農民もまた、しばしば信長を苦しめました。

京都のすぐ北にある比叡山延暦寺は近江(滋賀県)に持っていた領地を信長の家来に横取りされたので強い反感を持っていました。

僧兵たちは、浅井・朝倉などの大名と手を結んで信長に反抗しました。

そこで、おこった信長は1571年(元亀二年)突然比叡山を取り込んで寺を焼き払い、多くの僧や女子どもまで皆殺しにしました。

大坂石山の本願寺も、大きな力を持っていました。

本願寺は一向宗の総本山ですが寺のある石山は大阪湾にのぞみ海に囲まれた攻めにくい城になっていました。

そのうえ一向宗の信者には地方の農民や農民の頭として土地に住み着いている武士たちが多かったので、本願寺が指図をすると、ほうぼうで一斉に一揆をおこしました。

一揆は信長の敵側の大名たちと結んで信長の軍を苦しめ、このために信長の弟が戦死したこともありました。

そこで信長は、厳しく一揆を押さえつけました。

1574年(天正二年)に伊勢(三重県) の長島一揆を攻めたときには、降伏を許さず城の中に男女2万人を閉じ込めて、焼き殺しました。

その翌年には、越前の一揆を攻め農民も一向宗の僧も、見つけ次第に殺されました。
「府中の町(福井県)は死体でいっぱいで、空き地もない」と信長自身が手紙を書き送っています。

信長は、最後に残った本願寺を責め立てましたので本願寺側は、とうとう1580年(天正八年)に石山城を明け渡し、信長に従うことになりました。

これで近畿地方は信長の勢力で固まりました。

信長が、比叡山や一向宗の僧を、残酷なほど厳しく責め立てたのは、この頃の仏教が宗教の立場を離れて、政治にくちばしを入れたり国内統一の邪魔をしたりしたからです。

このような仏教のカを弱めるために信長はキリスト教を保護したりしました。

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