今回は織田信長とは? 長篠の戦と本能寺の変について、日本の歴史を紹介します。

長篠の戦い

信長は新しい兵器として、鉄砲を早くから利用していましたが、この鉄砲の威力が最もよく示されたのが長篠の戦いです。

1575年(天正3年)に、信長と徳川家康の同盟軍が武田勝頼(信玄の子)の軍と三河(愛知県の一部)の長篠で戦いました。

このとき武田軍は、天下無敵と言われた騎馬隊で突撃してきましたが信長軍が3000丁もの鉄砲で狙い撃ちしましたので散々に敗れました。

では信長は、なぜこんなに多くの鉄砲を持っていたのでしようか。

それは、このころの主な鉄砲の産地は堺の町と近江国(滋賀県の一部)でしたが信長は近畿地方を平定して、この産地を自分の領地にしていたからです。

安土城

近畿地方の勢力を固めた信長はその根城として、近江の安土に立派な城を造りました。

そして城下町に、部下の大名や侍を移り住ませ、商人や職人も呼び寄せましたので安土の町は、たいへん栄えました。

安土城は20メートルもある高い石垣の上に七重の天守閣が建ててありました。
屋根瓦には金を塗り、建物の中にも金のふすまには狩野永徳らの描いた美しい絵がたくさんありました。

このように立派な城は、日本には、これまでなかったものです。

本能寺の変

信長は近畿地方と中部地方の大部分を平定して天下統一のもといを固めましたが、その他の地方には、まだまだ信長に従わない大名が残っていました。

中国で勢力を奮っていた毛利氏もその1人です。

信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を総大将に命じて、これを撃たせ、自分も出陣しようとして安土城を出発し京都の本能寺に泊まりました。

このとき、家来の明智光秀が謀反を起し、ついに、責め殺されてしまいました。

1582年(天正10年)のことでした。

信長は、秀れた武将で室町時代の古い仕来りをどしどし打ち破りましたが、その一方で比叡山や一向一揆の焼き討ちのように残酷なやり方であったので、このような思いがけない死にあったのでしょう。

さて、織田信長についてもう少し紹介します。

信長の肖像画として最も正しいとされる三河(愛知県の一部)の長興寺に伝わる絵を見ますと信長は、うりざね顔の整った顔立ちをしています。

しかし、どこか神経質で癇癪持ちといったところもあります。

実際に信長に会ったキリスト教の宣教師ルイス=フロイスという人は信長について「尾張の主は、痩せていて、ヒゲが薄く、キンキン声をし回りくどい話が嫌いで神や仏を信じない」と言っています。

子どもの頃は手に負えない乱暴な変わり者で「大うつけもの(大馬鹿)」と言われましたが大きくなるにつれて武芸・学問に励み、全国統一という大事業に手をつける武将にまでなったのです。

信長には残酷な一面があり僧や農民でも手向かう者には容赦なく武力を使いました。
比叡山を焼き討ちしたり一向一揆と戦ったりしたのは、そのよい例です。

また、憎んでいた人を捕まえて、その首を「はくだみ(漆付)」とし酒盛りの度に、それを眺めたという話もあります。



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