今回は豊臣秀吉とは? 山崎の合戦と統一の完成について、日本の歴史を紹介します。

山崎の合戦

羽柴秀吉は、備中国(岡心県の一部)高松城の毛利軍を水責めにしているとき信長が本能寺で殺された知らせを受け取りました。

秀吉は、この事件が毛利軍に知られないうちに素早く仲直りをし、軍を引き返して明智光秀を京都の山崎で討ち滅ぼしました。

秀吉が、他の大名に先駆けて光秀を滅し主君の敵をとったりで、その地位は自然に重くなりました。
これを妬んだ柴田勝家などの信長の部下の大名と、秀吉の間に争いがおこりました。

秀吉は勝家を滅し、反対の大名たちを抑えて信長の残した天下統一の仕事を受け継ぎ推し進めることになりました。

大坂城

秀吉は、統一の仕事を進める根拠地として1582年から、もと石山本願寺のあった大阪に信長の安土城より、もっと立派な城を建て初めました。

大坂は近畿地方の中心にあり京都にも近く、瀬戸内海を通って中国・四国・九州などの西国地方との連絡には非常に重要な位置になっています。

ここに気づかれた大阪城は、城の周りが、およそ13キロメートル(今の大阪城の4倍、皇居の3倍ほど)もあり九層の天守閣がそびえ立っていました。

城の中も、金銀や外国から輸入した贅沢な布などを、ふんだんに使って飾られ見る人の目を見晴らせる、素晴らしいものでした。

統一の完成

充分に力を蓄えた秀吉は、大軍を動かして、まだ命令に従わない地方を討ちました。

1583年(天正22年)には長曽我部元親を攻めて四国を従わせ、1587年には島津義久を攻めて九州を平定しました。

最後に残ったのは関東の北条氏でしたが、これも1590年には滅ぼされ、秀吉は信長が死んでから、わずか8年で全国の統一を成し遂げたのです。

秀吉の戦争の仕方は、信長とも違っていました。

関東の北条氏を攻めたときは20万の大軍で取り囲み、食料として3万トンの米を小田原に近い港に集めたといわれます。

そのうえ、黄金を馬10頭に積み東海地方の穀物を買い占めました。
これに対して北条軍は、わずか3、4万の軍勢で城に立てこもったのですから、敵うはずがありません。

このように秀吉は、段違いに秀れた戦力で敵を責め立てましたが、降伏した者には割合い緩やかでした。

長曽我部氏も島津氏も自分のもとからの領地は、そのまま認められました。

このようなところが、残酷なほど厳しかった信長と違い秀吉が全国の統一を成し遂げた原因の1つであったともいえます。

1585年(天正二二年)に秀吉は関白となり、その翌年には太政大臣になりました。
太政大臣は、朝廷で一番高い身分です。

尾張(愛知県の一部)の農民の子に生まれた秀吉は、ついに日本全国の支配者になったのです。

秀吉はまた、京都に聚楽第というたいそう立派な屋敷を建てました。
そして、1588年(天正一六年)には後陽成天皇をこの屋敷に招き同時に全国の大名たちも集めました。

このとき秀吉は「子孫に至るまで皇室を大切にし、また関白の命令には、どんなことでも従います」と誓わせました。

身分や家柄を貴んだ封建制度の時代に実力一つで身をたてた秀吉は天皇を上にいただいて諸大名を抑えようとしたのです。

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