今回は文禄の役・慶長の役について、日本の歴史を紹介します。

文禄の役

関東・東北地方の平定が済むと国内の戦争は、ほぼ治まりました。
しかし秀吉は、その翌年、関白の職を甥の秀次に譲り、またまた戦争の準備を大名たちに命じました。

朝鮮半島に出兵するためです。

では秀吉は、なぜ国外にまで出兵しょうとしたのでしょう。
彼は英雄の持ちやすい大きな夢を、早くから持っていました。

朝鮮や明を責めとって都を北京に移し天皇をはじめ、自分も大名たちも大陸に渡って、大国家を造ろうという計画だったのです。

それが出来ないとしても、室町時代の末から途絶えていた明との貿易だけは、再び開きたい考えでした。

しかし、これは町が認めようとしないので秀吉は譜面に思っていたのです。
また国内の統一がすんで武士の気分が緩むのを引き締めようという目的もあったでしょう。

このような訳で、まず朝鮮を攻めることになったのです。

秀吉は九州の名護屋(佐賀県)を根拠地に定め1592年(文禄元年)四月に、15万8千もの大軍で朝鮮に攻め込みました。

これを文禄の役といいます。

日本軍は、鉄砲などの秀れた武器な多くもち、また朝鮮はこのころ国内の政治が乱れていたので、はじめは勝ち戦が続きました。

都の京城も落とし、加藤清正の軍は豆満江を越えて満州にまで攻め込んだほどでした。

しかし、そのうちに明の軍が助けに来たり朝鮮の民衆も日本軍に反抗して戦いはじめたので戦争は上手くいかなくなりました。

さらに日本の海軍は、明の海軍のために、しばしば敗れ、出陣した武士たちの間にも戦争を嫌がる者が出始めたので秀吉もとうとう仲直りをすることになりました。

慶長の役

ところが、その会議のとき明の使者の持ってきた手紙が秀吉を怒らせました。
このため秀吉は、1597年(慶長二年)再び朝鮮に大軍を送りました。

これが慶長の役です。

しかし、今度の戦争は上手くいかず日本軍は各地で、たいそう苦しい戦いを続けなければなりませんでした。

そうしている内に、翌年の春秀吉は病気で死にました。
このため日本軍は、戦いを止めて朝鮮から引き上げ、ようやく戦争は終わりました。

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