今回は刀狩りと城下町について、日本の歴史を紹介します。
刀狩りとは?
秀吉は1588年(天正16年)に諸国に命令を出して、寺や農民が持っている刀や、槍・鉄砲などを取り上げました。
この命令には、「百姓は、真面目に田畑を耕して年貢さえ、きちんと納めていれば子孫の代まで栄える。
そのためには、農具さえあればよい。
いらない武器を差し出せばそれで京都に建てる方広寺の大仏の釘やかすがいを作るから死んだ後まで、救われる」と諭しています。
しかし、本当は、一向一揆や土一揆のように寺や農民が武力で反抗する心配があるので、それを無くすために取り上げてしまったのです。
これを刀狩りといいます。
武士と農民の区別
これまでは、身分のあまり高くない武士は戦いのときの他は、農村に住んで農業をしていました。
しかし、秀吉の行った検地や刀狩りによって例え身分は低くても、武士は戦争だけをする農民は農業にだけ精を出して年貢を納めるというふうに、身分がはっきりわかれるようになりました。
そして武士は全て城下町に住むようになり農民が勝手に土地を離れることを厳しく取り締まりました。
武士と農民の身分だけではありません。
農民と商人や職人も、はっきり区別され商人は商売だけ、職人は道具を作るだけで他の仕事をすることができなくなりました。
商人が農村へ商売に出かけることにも厳しい制限がありました。
農民が、いろいろな品物を買って贅沢な暮らしをしないようにさせるためです。
商人や職人も城下町に呼び寄せせられて武士の生活を支えるために品物を作ったり商売をしたりしたのです。
城下町とは?
大名の住む城を中心に、家来の武士や商人や職人たちが集まって住む城下町がこのごろから全国につくられるようになりました。
大阪城のある大阪、徳川家康の城下町であった江戸(東京)をはじめ、城下町として栄えた町が、今でも日本の各地の大きな都市として続いています。
城下町は、どこでも武士の住む武家町と商人や職人の住む町とが、はっきりと区別されていました。
今でも、呉服町だとか鍛冶町・紺屋町・大工町などという町の名が各地に残っていますが、これは、それらの商人や職人が多く住んでいた町だったことをあらわしています。
こうして城下町は、大名の納める領地の政治や経済の中心になりました。