今回は安土・桃山時代の産業の発達について、日本の歴史を紹介します。
耕地が増える
信長や秀吉をはじめとして、大名たちは武士の生活を支える一番大切な産業である農業を盛んにする必要がありました。
そのため、雨が降ると、洪水になりやすい川に沿って大きな堤防を築き、田畑を水害から守りました。
また遠い川の上流から、掘割を作って水を引きこれまで農地にできなかった土地を開発しました。
加藤清正は肥後(熊本県)で2000へクタールも開発したということです。
堤防や、掘割を作るには、城を築いたり鉱山を掘ったりするために、この時代に大きな進歩をした土木技術が非常に役立ちました。
秀吉が得意だった水責めの戦法もこの堤防を作る技術を利用したものです。
このような努力によって、室町時代にはまだ100万へクタールに足りなかった
日本全国の農地が、秀吉のころには150万へクタールほどにも増えました。
農業の進歩
農業の仕方にも色々な工夫が行われました。
稲を刈った後の田に麦を植える二毛作も次第に広まり、稲や麦の種類も増えその地方の土地にあったものが作られるようになりました。
その他に、木綿の原料になる綿作りもこの頃から広がりはじめました。
室町時代前半までは、木綿は朝鮮から輸入される贅沢な品物でした。
しかし、後半に入ると近畿地方や中部・関東地方の国々で少しずつ作り初め次の江戸時代になると、主に使われるようになりました。
それまでは、麻の着物しかなかった人々にとって暖かい木綿の着物は、どんなにありがたかったことでしょう。
楽市と楽座とは
農業や、その他の産産業が盛んになるとその品物を売り捌く商業も盛んになります。
また大名や武士たちは、農民から取立てた年貢米を売りはらって、お金に替えたり武器などの戦争に必要な品物を買うためにも商人を利用しなければなりません。
そこで、商業を盛んにするために楽市と楽座の方法がとられました。
これまでは、市場での売買に税金がかかりまた商人や職人の入っていた座という団体がありましたが
この制限を破って、誰でも自由に営業できるようにしたのです。
信長は、安土の町を作ったとき税金をかけない楽市の命令を出しました。
このように城下町を作るときに商人や職人を呼び集める必要から楽市を行ったのです。
一方、楽座によって座から自由になった商人や職人たちは、城を作ったり直したにりするときの仕事の手伝いを命じられました。
これまで座を支配していたのは大きな寺や神社、それに朝廷や公家たちですが楽座のために彼らのら力は衰え大名の力が強くなりました。
楽市も楽座も、つまりは封建制度を強めるための手段だったのです。
交通の発達
戦争ともなれば、何千何万という大軍と物資を動かさなければならないので大名たちは、領内の交通を便利にすることに力を尽くしました。
城下町を中心に、主な道路には宿場がつくられ、ここに、いつも連絡用の馬を置いて公の交通や通信のために利用しました。
これを伝馬の制度といいます。
また道路沿いの村に命令して道や橋を修理させたり、並木を植えたりして交通の便を測りました。
秀吉が国内な統一して政治をとるようになると交通は、いっそう便利になりました。
交通を脅かしていた山賊や海賊を、厳しく取り締まり、また通行税を取るためにわかれていた関所も例えそれが皇室のためのものであってもすっかりやめさせました。
このため、商売をするための行き来もしやすくなり平和を楽しむ人たちの寺参りや宮参りなどの旅もたいそう多くなりました。