今回は安土・桃山時代の城の文化 武家文化について、日本の歴史を紹介します。

力強い武家文化とは?

安土・桃山時代の文化は、華やかで明るく、しかも活き活きとして力強く全国統一の時代に相応しい自由な気分に溢れています。

秀吉が北野(京都市)で行った茶の湯の会も非常に大掛かりで、伸び伸びしたものでした。
この茶の湯の会には、4、5百人もの人が集まり武士も町人も一緒になって、野原で茶の湯を楽しんだのです。

この時代の文化は、東山文化を受け継ぎ武家文化として、一層発展しました。
もともと貴族文化が土台になっていますが広く町人や地方の武士などにも行き渡るようになったのです。

城とふすま絵

信長の安土や秀吉の大阪城などのように大名たちは高くそびえる天守閣から城下町を見下ろしながら、領内を納めました。

この時代の文化が、城の文化と言われるのは城の建築を中心に、美術工芸がここに集まり文化の花を咲かせたからです。

城の中の城主の住むところは金銀や漆で飾られ、座敷には様々なふすま絵が描かれました。
そして、このふすま絵には、金地に絵の具を盛り上げて描いた濃絵という新しい描き方が用いられました。

濃絵は、これまでの絵をすっかり変えてしまい、その題材も、自然そのままの色と形をした大きな木や猛獣・野鳥などの姿で、見る人に強く迫るようなものが多く描かれました。

それは、室町時代の、静かに味わって見ようとするような絵とは、まるで違うものです。
屏風や、ついたてなどにも、ふすま絵と同じような新しい描き方が、取り入れられました。

信長や秀吉が、こうしたものを描かせたのは、それを自分の身の周りにおいて飾りたてることによって大名や人々を驚かせるのが目的だったのです。

狩野派

このような新しい描き方を初めたのは狩野元信で、孫の永徳とその養子の山楽が有名です。

永徳は安土・桃山時代の最も秀れた画家で信長が安土城を築いたときには一族の画工を率いて、ふすまや屏風に絵を描いたのです。

また、秀吉の聚楽第とか大阪城のふすま絵などにも筆をふるいました。
その他、「唐獅子図扉風」などの代表作があります。

永徳は、仕事を引き受けると下絵は自分で描き、色を弟子に塗らせた後仕上げは、自分で行ったようです。

大きなものを描くときは藁の筆を使い、木の高さが約3メートル人の背たけが1メートル半というような大きな作品を描きました。

彼の作品の特色は、細かさよりも力強さの溢れたところにあります。

狩野派の他にも海北友松・長谷川等伯・雲谷等顔・曽我直庵らは濃絵ばかりでなく、墨絵にも筆をふるいました。

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