今回は徳川家康について、日本の歴史を紹介します。

家康の関東入国

徳川家康は、尾張(愛知県の一部)と隣り合わせている、三河(愛知県の一部)の小さな大名の家に生まれました。

家康の家は、初めは松平氏を名乗っていました。

父の広忠の時までは、西に織田氏東に今川氏という、強い大名がいたため勢いを伸ばすことができませんでした。

家康も、わずか6才のときから22年もの長い間、織田氏や今川氏の人質となって、苦労をしました。

その間に、父の広忠は、家来に殺されましたが人質になっていた家康はどうすることもできませんでした。

1560年(永禄三年) 今川義元が織田信長に桶狭間(愛知県)で討たれると、家康は、やっと自由の身になりました。

三河に帰った家康は、信長の全国統一の仕事を後ろから助けながら、三河を従えました。
そして、さらに今川氏への領地である駿河(静岡県の一部)・遠江(静岡県の一部)にまで勢いを伸ばしました。

信長に代わって、豊臣秀吉が全国の統一を続けていくと秀吉に従い、とうとう三河・駿河・遠江甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の五か国を自分の領声地にしてしまいました。

1590年(天正一八年) 小田原(神奈川県)の北条氏が、秀吉に滅ぼされると家康は秀吉の言いつけで北条氏の領地であった関東に移りました。

家康の家来たちは、この国替えは秀吉が徳川氏の力を弱くするためであると考えて慌てたり騒いだりしましたが家康は、あまり困った様子を見せませんでした。

家康は、江戸を根拠地にして新しい領地を治めるためにいろいろ努力しました。

江戸の近くの国々に、身分の低い家来に与える土地と徳川氏の領地を集めました。

有力な家来は、なるべく江戸から遠いところにおき、関東の周りの大名たちに、備えさせました。
こうして江戸(東京)を中心にして関東の領地を、しっかり固めようとしたのです。

また江戸の城下町を整えることにカを尽くしました。

家康が江戸に入ったころは北条氏の家来が作った小さな城の周りに漁村が散らばっているだけの寂しい土地でした。

今の日比谷の交差点のあたりから南は江戸湾が入り込みカヤの生えた沼地が広がっていました。
海では、クジラがゆうゆうと泳いでいたということです。

家康は,その城を直して住み沼地を埋め立てて堀をつくりいろいろ必要な品物な船で城の近くまで運ばせるようにしました。

また商人や職人の頭を集めて町をつくらせ、領一内の商工業を取り締まらせました。

封建制度の世の中を治める武士たちの生活は農民の年貢で支えられていましたので農民を上手く支配することが一番大切な仕事でした。

家康は、秀吉のやった検地の方針を受け継ぎ領地の事情とにらみ合せて、行き過ぎのないようにしました。

そして、地主に雇われて田畑を耕している者の権利を認めながら、地主の利益を守ってやるようにしてやりました。

家康は鷹狩りが、たいへん好きでした。

暇があると、江戸の近くへ鷹狩りに出かけて村々の様子を見て回りました。
田畑からのとれ高を増やして年貢をたくさん治めるように言いつけ言うことを効かない農民は遠慮なく罰しました。

こうして家康は、秀吉に従う大名の中では一番強い力を持つようになりました。



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