今回は関ヶ原の戦いについて、日本の歴史を紹介します。
関ヶ原の戦いとは?
秀吉が死ぬと、世の中は、また乱れそうになりました。
秀吉の子の秀頼は、まだ小さかったので家康が秀吉の次に政権を握るだろうと考える大名が多くなりました。
家康も、大名たちを自分に従わせるためにいろいろな手を打ちました。
そこで、秀吉のお気にいりだった石田三成は政権が家康に移るのを防ぐために秀吉の恩を受けた大名たちを集めて家康と戦うことになりました。
1600年(慶長五年)三成は兵をあげて家康に従う大名たちが大阪に残した妻や子を人質として抑えようとしました。
このとき、細川忠興の妻お玉(明智光秀の娘。キリスト教徒としての名はガラシャ夫人)は人質にされる前に、忠興の言いつけを守り家来に首を討たせたと言われています。
家康の率いる東軍と、三成方の西軍とは関ヶ原(岐阜県)で天下分け目めの戦いを初めました。
西軍もよく戦いましたが勝利は家康の手に入りました。
こうして徳川氏が、豊臣氏に代わって天下を治めることになったのです。
関ヶ原の戦いから三年後の1603年(慶長八年)家康は征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きました。
信長も秀吉も、全国統一の仕事を進めましたが幕府を開こうとはしませんでした。
それだけ家康の武家政治に対する考えは2人より深かったことがわかります。
家康は、武家政治を初めた源頼朝をたいへん尊敬し自分は鎌倉幕府を引き継いだ室町幕府の後継であると、固く信じていました。
しかし家康は、わずか二年で将軍の職を子の秀忠に譲り、駿府(静岡市)に引っ込んで「大御所」と仰がれました。
そして、相変わらず幕府の政治を動かしました。