今回は大坂冬の陣・大坂夏の陣について、日本の歴史を紹介します。

大坂の陣とは

家康は関ヶ原の戦いで勝ち幕府を開いて政権を握りましたが、その行く手には、いろいろ難しい問題が残されていました。

それは豊臣氏をどうするかということです。

関ヶ原の戦いの後豊臣秀頼はわずか65万石(9万7500トンほどの米がとれる領地)の大名に落とされましたが攻めても中々落ないと言われた大阪城におり、また豊臣氏に心を寄せる大名も少なくなかったのです。

豊臣氏では、秀吉の子秀頼が大きくなれば家康も政権を返すだろうと考えていましたが、その臨みも無くなり非常に徳川氏を恨むようになりました。

こうして、豊臣氏と徳川氏の仲がだんだん悪くなってきました。

家康は、全国の大名から幕府の命令に住むかないと言う誓いの書きつけを取ったりして、万一の場合に備えました。

家康は、もう70才になっていました。
秀頼は20才を越えて中々優れた若者になってきました。

家康は、もし、自分が先に死んだら徳川の天下もどうなるかわからないと心配しました。

そして、どうにかして自分の生きている間に豊臣氏を滅しておかなければならないと考えるようになりました。

こうしておこったのが方広寺の鐘銘事件です。

家康は秀頼に勧めて、大地震で倒れた京都の方広寺を立て直させましたが、その鐘に貼り付けた文字に
「国家安康」とあったのを家康の名な二つに切って呪うのだと言いがかりを付けて豊臣氏を攻めました。

豊臣氏では、いろいろ弁解しましたが家康は聞き入れず、とうとう戦いが初まりました。

豊臣氏は、秀吉の恩を受けた大名に助けを求めましたが、多くの大名は幕府のカを恐れて、豊臣氏に味方をしませんでした。

けれど真田幸村などの優れた武将や浪人が、たくさん大阪城に入り、その中にはキリスト教の信者も少なくありませんでした。

こうして、1614年(慶長一九年)に大阪冬の陣が初まりました。

大坂方は、攻めにくい大坂城に立てこもって勇ましく戦いましたので、中々落ちません。
家康は、とうとう大坂方と仲直りをしました。

そのときの約束に、大坂城の外堀を埋めるとあったのを、外堀だけでなく内堀まで、わざと埋めてしまいました。

こうなると、大坂城は陸に上がった河童のようなものです。

翌年の1615年(元和元年)に二度目の戦いがおこりましたが、こんどは、簡単に大阪方が負け豊臣氏はとうとう滅んでしまいました。

これが大阪夏の陣です。

豊臣氏が滅んだ翌年の1616年に家康は75才で亡くなりました。
鯛のてんぷらの食べ過ぎがもとだったということです。

豊臣氏を滅ぼして安心して死ぬことができたのでしよう。

家康は、初め久能山(静岡県)にのち日光(栃木県)に葬られ、立派な権現つくりの東照宮に神様として祀られました。

だから家康は「東照神君」とか「権現様」と呼ばれ幕府が終わるまで、その守り神として敬われました。



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