今回は江戸幕府の仕組みと領地との関係について、日本の歴史を紹介します。

幕府の仕組み

家康が開いた江戸幕府は、その孫の三代将軍家光の頃までに政治の仕組みもすっかり整いました。
その仕組みは、徳川氏がまだ三河の大名であった頃のものをだんだん補い、広げたものです。

家康・秀忠の時代にはまだ老中・若年寄などの職はなく家老・年寄と呼ばれた家来が政治を行なっていました。

これは、どの大名でも同じだったのです。

ことに家康の頃にはこの他に、商人・僧・学者などが、たくさん家康のそば近くに仕えて、いろいろな仕事を受け持っていました。

例えば、後藤庄三郎・茶屋四郎次郎などの大商人もおれば天海・崇伝などの僧もおり林羅山のような学者もいました。

家康に一番信用された本多正信は徳川氏の古くからの家来ですが途中、家康に背いて追い払われ、また家康に使えるようになったのです。

とにかく家康や秀忠の頃は役人の仕事の分担がはっきりせず、役に立つ人ならば武士でなくても、どしどし、重く用いられて幅の広い仕事をしたのです。

ところが家康の死んだあと徳川氏の古くからの家来で大名になった譜代大名の勢いが、次第に強くなって幕府の政治を動かすようになりました。

政治の仕組みも、だんだん整えられ三代将軍家光のとき1635年(寛永21年) に老中・若年寄・大目付寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行などの役人と仕事の内容が、大体決まりました。

これらの重要な役人には譜代大名がなり政治の方針を決めました。

老中は、一番上の役人で将軍の下で政治の全責任を負いました。
四人が1ヶ月ごとに代わる代わる政治をとり大事なことは相談して決めました。

後に、老中の上に大老がおかれましたが、これは必要なときだけの臨時の役でしたから、やはり老中が一番、重い役だったのです。

幕府の領地

幕府も大名も、自分の領地の中に直接治めるところを持っていました。
落府の場合はそれを天領といい約400万石もありました。

一番大きな大名であった前田氏の領地のおよそ四倍もあったのです。

それに、幕府の直々の家来である旗本の領地300万石を加えると幕府の領地は、約700万石で全国の石高の四分の一ちかくになります。

天領は全国に散らばっていましたがとくに関東・近畿・北陸地方に、たくさん集まっていました。
幕府は天領に郡代や代官をおいて年貢をとったり、農民の取締をさせたりしました。

幕府は、その他に、全国の大切な都市や鉱山を、自分のものにしました。
江戸のほかに大坂・京都・長崎・山田(三重県)などの都市がそれです。

鉱山は、佐渡の金山石見(島根県)の銀山などです。

幕府はもこのように貿易や交通・産業のうえで大切なところはほとんど、自分のものにしていたので金銀や貿易などの儲けを独り占めにすることができました。

幕府だけが握っていた大きな力はそれだけではありません。
貨幣を発行することも独り占めにしていました。

江戸時代の初め頃までは、かなり多くの大名が貨幣を発行していました。
幕府は、だんだんそれを禁止して、幕府だけが貨幣を発行するようにしました。

金座・銀座・銭座をおいて金貨・銀貨・銭貨の三種を作って全国に行き渡るようにしたのです。
幕府は、こうして自分の好きな時に貨幣な発行して財政を補ったり物価の釣り合いをとったりしました。

だから幕府の力は1人や、2人の大名がかかっても、とうてい歯がたたないほど大きかったのです。



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