今回は幕府と大名との関係、武家諸法度と参勤交代について、日本の歴史を紹介します。
大名の取り締まり
徳川氏も、もとは大名のひとりでした。
秀吉に従っていたころは他の大名と同じ仲間だったのです。
ところが、関ヶ原の戦いで徳川氏が勝利をおさめると徳川氏と大名の関係はすっかり代わってきました。
家康は、この戦いで西軍についた91人の大名の領地を取り上げ四人の領地をけずりとって、それを徳川氏の領地にしたり東軍に味方して、手柄を立てた大名にわけてやりました。
それだけではありません。大名の国替えを徹底的きに行いました。
幕府のお膝元の関東は、これまで通り、幕府の領地と旗本・譜代大名で固め東海道・中山道・近畿地方も
大体、それと同じ方針をとりました。
関ヶ原の戦いまで、肩を並べていた大名は、なるべく東北・四国・九州などの遠いところに移しました。
幕府の方針は、徳川氏と親しい大名と親しくない大名、また大きな大名と小さな大名とを隣り合うようにし、お互いに、抑え合うようにしたのです。
そうすれば、大名どうし力を合わせて幕府に背くことが、できなくなるからです。
大名が領地を取り上げられたり国替えされることは、この後、一層盛んに繰り返されましたが、それによって、大名は古い領地との結びつきを切られ、政府に背くことができなくなりました。
これを荻生狙徠という学者は「原野に、生えている草を引き抜いて植木鉢に植えるようなものだ」と言っています。
後には、将軍が代わったり大名が国替えする度に将軍の朱印状が与えられるようになりました。
これは、全国の土地は将軍(幕府)のものであり、それを特別の御恩で大名にわけてやるのだという考えを
大名たちに植え付けるためでした。
武家諸法度と参勤交代
幕府はまた法律の力で大名を抑えようとしました。
豊巨氏が滅んだ1615年(元和元年)にだされた武家諸度がその代表的なものです。
これは家光のときに、はっきり整えられましたがその中には、幕府の許しがなくて城を築いたり大名の間で結婚をしたりしては、いけないと決められています。
しかし、一番大きな決まりは参勤交代です。
参勤というのは、戦国時代に家来が大名の城下町に勤めにでることから始まったのですが幕府は、はっきりこれを大名の義務にしてしまったのです。
大名は、一年領地に住むと次の一年は、必ず江戸に住むように決めらけれ大名の妻や子どもは、人質の形で、ずっと江戸に住むようにされました。
参勤交代で、江戸と領地を行き来するときは、たくさんの家来をつれて、長い行列をつくるのです。
その費用は、たいへんなもので、そのため大名たちのカは非常に弱められました。
幕府は、この他にも江戸や名古屋の城を築いたり川の堤防を直したりするときにも度々、大名に手伝わせました。
こうして、大名は幕府から、いろいろな取り締まりを受けて幕府にどうしても背くことができないようにされました。
大名と藩
大名は幕府との関東から三とおりに区別されていました。
幕府の親類の大名を親藩といい三家(紀伊・尾張・水戸の徳川家)や三卿(田安・一橋・清水の三家)があります。
徳川氏の三河時代からの家来であった大名を譜代といい、また関ヶ原の戦いの後から幕府に従うようになった大名を外様といいます。
そして、このような大名の家柄によって江戸城にいるときの部屋や席もわかれていました。
大名たちは、幕府から領地をわけてもらい、それを自分たちのやり方で治めていました。
幕府の大切な法令はそれぞれの領地でも守らなければなりませんでしたが、その他は、自分の方針を立てて政治を行いました。
大名は、自分の領地では将軍(幕府)と同じような強い力をふるいました。
江戸時代の大名の領地を藩といいます。
藩というのは中国の言葉で「かきね」という意味です。
大名は幕府を守る「かきね」であるというのです。
大名の政治の仕組みは幕府とよく似ていますが形は、ずっと小さいものでした。
とにかく、こうして江戸時代の中ごろまでに幕府と藩の仕組みが出来上がり全国をしっかりと治めるようになりました。