今回は江戸時代における身分の差別とは? 士農工商、低い女性の地位について、日本の歴史を紹介します。
士農工商とは?
江戸幕府は、信長・秀吉のとき以来、次第に作られてきた身分の差別をはっきり士農工商の四つの身分制度に仕上げました。
とくに武士と農民・町人との差別を厳しくしました。
そして武士の子は武士、農民の子は農民と、永久に決められました。
人間の値打ちが、その人の才能や努力と関係がなく、ただその生まれによって決められていたのです。
支配者である武士は、総人口3000万ほどの内わずか7パーセントに過ぎませんでした。
しかし身分は一番高く、苗字を名のり常に両刃をさすことが許されており農民や町人が無礼なことをすると斬り殺しても構いませんでした。
しかし同じ武士でも、上は将軍や大名から下は足軽まで、たくさんの身分にわかれ下の者が上の身分になることはめったにできませんでした。
武士の他の人口の大部分は農民や町人で占められ、とくに農民は80パーセント以上にも上りました。
そして、これらの中にも、身分の上下があり付き合いや結婚も、同じ身分同士でするように仕向けられていました。
しかし、士農工商の身分制度の一番下におかれていたのは、えた・非人でした。
えたのおこりは、よくわかりませんが一番卑しい身分と決められたのは江戸時代のことです。
人々の嫌がる職業をさせられ住むところも、一般の農民や町人とはっきりわけられていました。
しかも、絶対に農民や町人になることが許されず同じ身分の者だけで、付き合ったり結婚したりしなければなりませんでした。
非人は、貧しいために落ちぶれた人や罪を犯した人の身分で大抵乞食をして暮らしていました。
えたと違うところは、非人になっても10年以内なら、もとの身分に戻ることができたということです。
主人と家来
士農工商の身分を支えたものは主人と家来の関係でした。
これを主従関係といいますがこれはもともと武士の間で領地や俸禄(給料) のやりとりがもとになって発達したものです。
それが江戸時代になると、社会全体に広がりました。
農村の地主と小作人、商家の主人と奉公人職人の親方と弟子をはじめ社会のあらゆる面に主従関係ができあがっていました。
家の中でも、家族は主人の言いつけには絶対に従わなければなりませんでした。
だから、古い家柄や、昔からの仕来りが大切にされ、学問や芸事にまで本家や家元が生まれるようになりました。
低い女性の地位
家の中では、父親の力が重くみられ家族は皆、その家来のように扱われました。
とくに武士の家では、長男だけが家を継ぐことになっていましたので、同じ家族の中でも、後継の長男だけが大切にされ次男三男などは、かえってやっかい者扱いをうけました。
家族の中でも、一番地位が低かったのは女性でした。
新しく、よその家からきた嫁は姑がいなくなるまでは一家の主婦ではなかったのです。
はっきりした理由もないのに家風にあわないというだけで離縁されても、しかたがなかったのです。
しかし、こういう家の中の関係は武士の間で一番強く、農民や町人の家では、それほどでもありませんでした。
武士と違って、土地や財産を長男だけでなく、次男や三男や娘にもわけることが多かったのです。