今回は江戸時代の農民の暮らし 農民の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。
江戸時代の農民の暮らし
農民は、暮らしに必要なものは大抵、自分でつくりました。
そのために、水田をつくるための用水や薪をとったり、草を刈ったりする山林や野原などは、村中、またはいくつかの村で共同で利用しました。
こういう山林や野原を入会地といいます。
耕地が狭いうえに、年貢が重いので収穫を多くするために、これまでよりも、さらに激しい労働を繰り返さなければなりませんでした。
だから村の人たちは、どうしても助け合わなければなりませんでした。
近い者同士が、助け合う仕組みを「ゆい」といいます。
田植えや取り入れのときなどにゆいの仲間が、1件1件、手伝うのです。
また、苦しい家計を助け合うためにお金を積立てて使う講や無尽がたくさんつくられました。
江戸時代も後になると農村にも、だんだん、お金が行き渡るようになりましたが初め頃は、お金でものを買うことはありませんでした。
鉄でつくった農具や塩・薬などどうしても自分で作れないものの他は町の人のように、お金を出して好きなものを手に入れることも中々、出来なかったのです。
年貢の割り当てや村の費用を決めるときなど大事なことは、寄り合いを開いて話し合いました。
しかし、その場合でも座る順序が決まっており村役人や地主は、いちばん上座に座りその意見が大きな力をもっていました。
村の申し合わせに背いた村人は村から追い出されたり、村八分にされて村人から、付き合いを断られたりしました。
村八分にされると手伝いがないので、葬式も出せなかったのです。
とにかく、村では、農民が自分の家だけでは暮らしていけないように出来てていたことがわかります。
江戸時代の村の楽しみ
このように、農民たちの暮らしはたいへん苦しく、また同じ仕事を繰り返してているので、毎日退屈でした。
だから、楽しいことがあれば思いきり楽しもうとしました。
村の楽しみで、いちばん大きいのはやはり鎮守様の春秋2回のお祭りでした。
その時は、操り人形の芝居を呼んだり自分たちで芝居をしたり相撲をとったりして楽しみました。
この他、正月・盆・節句などの行事には餅をつき、酒を飲みみんなで一緒に踊ったりしました。
幕府や藩では、農民が遊びすぎて耕作を怠け、年貢がとれなくなることを心配して、抑え付けようとしました。
交通が開けてくると農民も、神社や寺にお参りしたり名所を見て歩くようになり、ことに伊勢神宮にお参りすることを一生の願いとしていました。
しかし農民の多くはそのお金がないので講を作って掛金を蓄え、その代表者がお参りに出かけました。