今回は御朱印船とは? 徳川家康と外国貿易について、日本の歴史を紹介します。

豊臣秀吉の外交とは

室町時代の末には大陸に近い九州や中国地方などの大名たちは朝鮮や、中国や、琉球の国々と盛んに貿易を行なって、豊かになり非常に大きな勢力となったものもありました。

また、倭冠といって遠方では、南中国の方まで出かけていき相手が大人しく商売に応じないときは、たちまち、強盗になると、乱暴な日本人もいました。

秀吉は、国内を統一すると大名や商人たちが勝手に貿易することを取り締まり、その頃、盛んに活躍した海賊を取り締まるために証明書を作りました。

そして、この証明書を持った船だけが国外へ出かけることを許しました。

また、秀吉は、いつも世界地図を描いた扇を持っていたといいますが国内を統一したら、海外へも手を伸ばそうとしていました。

秀吉は、早くから朝鮮に目をつけ続いて、「唐入り」を夢見ていました。
「唐入り」というのは中国に攻め入ることです。

そして、秀吉は「唐入り」の次には「天竺南蛮」にまでもと思っていました。
「天竺南蛮」というのはインドや南の国々という意味です。

そこで、秀吉は、天竺(インド)、ルソン(フィリピンの一部)、高山国(台湾)の国々へ手紙で頭から、日本に降参して貢物を出すようにいってやりました。

しかし、これは外国の様子をよく調べないでやることですから、いくら秀吉でもうまくいくはずがありません。

徳川家康と外国貿易

家康は、幕府の力を経済の方からも強めようと考え儲けの多い外国貿易については非常にカを入れました。

そこで、家康は、秀吉が外国貿易に対して乱暴な制作をとったのと反対に親しく付き合う制作をとりました。

そして、ルソン・安南(ベトナムの北部)、ジャム(タイ)・カンボジアなどと貿易を行い、貿易船には秀吉のやり方にならって朱印状という証明書を持たせました。

朱印状には「日本よりもどこどこの国へ行く船である」ということが書いてあり海賊船でないことをはっきり示しました。

この貿易船を御朱印船といいます。

また、家康は中国とも正式に貿易をしたいと思いました。

そこで、前から来ていたポルトガルやスぺインの船を通して中国の品物を手に入れなければなりませんでした。

1600年(慶長五年)関ヶ原の戦いが始まった年の春、リーフデ号というオランダの船が豊後国(大分県)の海岸に流れつきました。

この船には、アダムスというイギリス人とヤン=ヨースチンというオランダ人がのっていました。
家康は、この2人を取立てて幕府の外交についての相談役にしました。

2人はそれぞれ日本橋に屋敷をもらい、ことに、アダムスは三浦按針という日本名を名乗りました。
三浦というのは彼が相模国(神奈川県) の三浦郡に領地をもらったからで按針とは、今の言葉でいえば水先案内のことです。

やがて、オランダ・イギリスと貿易の道が開け平戸(長崎県)に商館を建てて活動をはじめました。

そのころ、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダなどが東洋へ来て貿易をするといっても西洋の品物ばかり取り扱ったのではなく東洋の各国の品物も数多く扱いました。

彼らは儲かる品物ならなんでも各港で買いいれて、すぐまた他の港で売りました。

日本へは、中国や南方の港で仕入れた生糸・ラシャ・毛皮・鮫の皮・砂糖・香などを持って、日本の特産物である銀・銅・刀剣・金銀細工・海産物屏風・扇子などを仕入れて帰りました。



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