今回は御朱印船の人々とは? 南洋の日本町について、日本の歴史を紹介します。

街朱印船の人々とは?

御朱印船とは、今の船にすれば100トンから1000トンくらいの大きさで乗組員も50人から400人もの大勢が乗り込んでいました。

毎年20そうくらいの船が遠く南から、カンボジア・ジャム・マティ・ジヤワ・ボルネオ・ルソンなどへ出かけていきました。

儲けが大きかったので商人の他に、加藤清正や細川忠興・松浦鎮信・有馬晴信・鍋島勝茂・島津家久のような大名まで貿易に携わりました。

朱印船貿易で活躍した商人には呂宋助左衛門・角倉了以・後藤宗叫などが、挙げられます。

呂宋助左衛門は、堺の大商人で苗字を魚屋(ととや)といい先祖は倭冠の仲間でしたが助左衛門は朱印状を受けてフィリピンに渡り、ここを根城に貿易を行なっておりました。

あるとき、茶人の喜ぶルソンの壺50個を輸入し秀吉に差し上げました。

秀吉はこれを独り占めにしようとしましたが茶人の利休と相談して各地の大名たちに売りました。
おかげで助左衛門は大儲けをしました。

角倉了以は、京都の人で、その頃の人から「ただものでない」と言われていました。
彼は、息子の与一と一緒に盛んに貿易をし、その船は角倉船として有名でした。

貿易の傍ら、運河をいくつか作り、また、角倉版とか嵯峨本という世界にも誇れるほどの美しい本をいろいろつくりました。

南洋の日本町とは?

大勢の日本人が御朱肌船や外国船に乗って海外に出かけていきました。

その中には、奴隷として売られたりあるいは、兵隊や商館の手伝いなどに雇われたり、さらにキリスト教が禁止されて厳しい刑罰が行われるようになると、その信仰を守りぬくために海外へ渡った人がたくさんあります。

恐らく、寛永の鎖国(1639年)までに海外へ渡った人は10万人くらいになるでしょう。
その人々の何パーセントかは日本へ帰らずに行った先々で住み着きました。

これらの人々はたいてい日本人ばかり固まって住み着きましたので、そこは、しぜん日本町ということになりました。

そして、こういう日本町がインドシナ半島や、シャム・フィリピンの各地にできました。
安南では、ツーランや、はフェフォという町に日本町がありました。

ツーランでは、港の近くに日本町ができ二階建ての店が、道を挟んで両側に三町(約330メートル)も続いていたそうです。

店には、着物・屏風・蒔絵の箱などが並べてあり町には、かみしもを付けた武士の姿や十字架のメダルを首にさげたキリスト教信者の姿も見られました。

カンボジアにも、日本町がありました。
そのころの都をウドンといいましたが日本町は、その都の近くにニか所ありました。

一つは、今の首府であるプノンぺンにあともう一つは、その北六里(約24キロ)あまりのビニヤルにありました。

シャムでは、バンコクの北のアユチャに日本町がありました。

山田長政は、はじめ、このアユチャに住み着き日本人の頭として、活躍しましたが後に、日本人の兵隊を率いてシャムの国王に仕え、手柄をたてました。

そして、リゴール王という高い位を貰いその地方をよく治めました。
フィリピンではマニラに日本町がありました。

日本人は、どこでも日本の着物を着て、日本の週刊を守り、神社やお寺を建てて、日本での生活を忍びました。

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