今回は織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係について、日本の歴史を紹介します。
信長とキリスト教
信長は、生まれつき信心の出来るような人ではありませんでしたが宣教師と友達になり家来がキリスト教の信者になっていくのを平気で見ていました。
なぜなら、信長にとって本願寺や、廷賦寺のような大きな仏教勢力は天下を統一していく上でたいへん邪魔になりました。
そこで信長は、この仏教勢力と対抗させるためにキリスト教を認めたのです。
それに、その頃の僧たちが行いの良くないのに比べて宣教師たちは、不自由をしのんで立派に教えを広めていました。
このような宣教師の態度を見てすっかり感心しました。
しかし何よりも信長をキリスト教に惹きつけたのは宣教師と外国貿易とが固く結びついていることでした。
宣教師たちはキリスト教を許せば貿易船がやってくると言って大名たちから、キリスト教を広めてもよい許しを得ていました。
そこで、信長も、宣教師がくれば外国の貿易船も来て時計や望遠鏡など、いろいろ珍しい品物を手に入れることが出来るしまた、西洋の進んだ知識も取り入れることが出来ると考えました。
このように、天下統一の大事業を進めて信長にとって、キリスト教の勢力など問題になりませんでした。
宣教師たちは九州から近畿地方にかけて自由に旅行し、教えを広めました。
そして、至るところに大小の天主堂ができました。
また、安土や有馬(神戸市)長崎・府内(大分市) には学校がつくられ、そこでは、ラテン語やポルトガル語・油絵・エッチング(銅版画)や時計の造り変えまで教えていました。
信長の死んだ1582年(天正10年) には信者の数は、10万人にもなっていたと言われます。
秀吉とキリスト教
信長の跡を継いだ秀吉も宣教師と親しく交わり天主堂を訪ねて、西洋音楽を聞いたり牛肉やぶどう酒のごちそうになったりしました。
秀吉の周りには小西行長(オーガスチン)・黒田孝高(シメオン)高山右近(ジュスト)・内藤如安(ジョアン)など多くのキリシタン大名がおり、また城内にも熱心なキリシタンが何人かおりました。
秀吉は1587年(天正15年)島津征伐のために九州へ行って見て驚きました。
長崎の町は、全く、教会のものとなり町の周りには、砦や堀まで築いてあったのです。
秀吉は、このようなキリスト教の勢力の盛んな有様を見てこれは、油断が出来ないと思いました。
そう思うと、気になることがいろいろ出てきました。
特に、キリスト教の教えや習わしは封建社会を整えていく上で大きな妨げとなりました。
例えば、封建社会でもっとも重んじられた主従の関係もキリスト教では、神(デウス)に対する尊敬の方が重んじられたのです。
そのために、信者が領主の命令通りにならないということがしばしばありました。
この年(1587年)秀吉は博多の宿で、突然キリスト教を禁じる命令を出しました。
宣教師たちは、20日以内に日本を立ち退かなければいけないことになりましたが実行は無理でした。
秀吉にすればキリスト教は禁じても儲けの多い貿易は止めたくありませんでした。
信者は、それに漬け込んで宣教師をかばい、宣教師たちはこっそり、教えを広め続けていたのです。
その上、1584年(天正21年)ルソンから、スペインの商船が平戸について以来、新たにスペイン系のフランシスコ会の宣教師が来るようになりました。
秀吉は、ルソンを通してスペインと貿易をしようと思っておりましたので、このフランシスコ会の宣教師たちに布教(教えを広めること)の許可を与えました。
こうなると秀吉のキリスト教禁止の命令はあっても無いようなことになりました。