今回は徳川家康とキリスト教との関係について、日本の歴史を紹介します。

家康とキリスト教との関係とは?

家康もキリスト教を好みませんでしたが貿易を大切に思ったため初めは、多めに見ていました。

その結果、信者は、益々増え1605年(慶長10年)には70万人にもなり東北地方から北海道にまで広がって行きました。

特に、農民や鉱夫の信者が増えてゆきました。

ところが、17世紀に入ると東洋の貿易は、ポルトガルやスペインに代わってイギリス・オランダの勢力が伸びてきました。

おりもおり、1600年(慶長五年)オランダ船リーフデ号が豊後に流れつきました。

オランダ人やイギリス人はキリスト教の信者でしたがスペイン人やポルトガル人と違ってプロテスタント(新教=カトリツクが古臭いといって新しくつくった宗教の団)で貿易のためには宗教のことにあまりこだわりませんでした。

家康は、キリスト教に関係なく貿易が出来ればたいへん都合がよいと思いました。

キリスト教の禁止

キリスト教の信者は段々増えてきました。
調べてみると、家康のそば近く仕えている侍の中にも大勢の信者のいることがわかりました。

さらに、京都や九州に使いを出して調べさせてみると、益々キリスト教の勢力のたいへんなことがわかりました。

幕府のこうした心配をいっそう強めたものとしてオランダ人の告げ口があります。
オランダは日本との貿易からポルトガルを追い出すために「ポルトガルは、キリスト教を広めることによって日本を滅ぼそうとしている」と告げ口しました。

1612年(慶長17年)には幕府は、とうとうキリスト教禁止の命令を出しました。

そして、あくる年の1622年(慶長18年)には幕府は、前よりも一層厳しい命令を出して信者を見つけ次第捕まえて島流しにしたり、死刑にしたりしました。

高山右近や内藤如安は信仰を捨てれば許してやるといくら言われても効かないのでマニラへ流されていきました。

キリスト教の禁止は江戸幕府の決まりとなり家康の跡を継いだ秀忠次の家光の時代になってますます、厳しくなりました。

張り付け・火攻め・水責め・逆さ吊るし・のこぎり引きなどの残酷な方法で拷問し信仰を捨てさせようとしました。

信仰の弱い人は、すぐに信仰を捨てましたがどんなひどい目にあっても平気で死んでいく人もありました。

とにかく、上からの厳しい取り締まりによって、表面では信者はなくなりました。

しかし、熱心な信者たちは心の中では、なかなか信仰を捨てきれず密かに、隠れキリシタンとして生き続けたのです。



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