今回は島原の乱とは? 天草四郎について、日本の歴史を紹介します。

島原・天草の農民と領主

肥前(長崎県)の島原半島と肥後(熊本県)の天草地方には早くから、キリスト教信者がたくさんいました。

もともと、これらの地方は有馬晴信や小西行長などのキリシタンで大名の領地で豊かではありませんでしたが人々は、強い信仰を持って平和に暮らしていました。

ところが、キリスト教が禁じられ天草では、小西行長が死に島原でも有馬晴信の子の直純は信者の取り締まりが手ぬるいという理由で日向国(崎県)へ追いやられてしまいました。

そして、島原へは桝倉重政(長門守)天草へは寺沢広高(志摩)という新しい領主が移ってきました。

島原も天草も山が多くて作物の採れる量が少ない上に新しい領主は、無慈悲で年貢(税)の取立てをとても厳しくしました。

そして、領主は、天候の加減で不作が続いても、年貢をまけてくれません。
特に、キリスト教の信者と思われる者には、情け容赦なく、ひどい目にあわせました。

妻や子どもを人質にとったり水責めにしたり、あるいは鞭で叩いたり、裸の体に、みのを着せて火を付けたりしました。

苦し紛れにもがくと、それをみの踊りと言ったと長崎にきていたオランダ人が書いています。
このように、農民や猟師たちは信仰と年貢の両方から苦しめられ領主に深い恨みを持っていました。

天草四郎

1637年(寛永14年)特に不作で餓死にするものが多く、それに、毎日空が真っ赤に焼けて季節外れに桜の花が咲いたりして、みんな気味悪がっていました。

そこで、これは、世の中が地獄になる前触れでキリスト教の信者だけは救われるのだという噂が広がりました。

秋になって、島原地方のある村で年貢を納めないと言って女の人がつれていかれました。
その人は、お腹に赤ん坊を孕んでいたのに手荒くいじめられて死んでしまいました。

また、ある村では夜中に信者たちが集まってキリストの御影(肖像画)を拝んでいるところへ役人が踏み込んで来て御影をびりびり破いた上、信者を縛ってつれていきました。

今まで、じっと辛抱していた農民たちもついに、我慢できなくなりました。

島原でも、天草でも、このときとばかり示し合わせて立ち上がり役人の家を襲って、片っ端から殺しました。

このように、農民たちが、苦しさに耐え兼ねて役人や領主に、激しく手向かい一揆をおこしたのです。
一揆の頭に、16才の少年天草四郎が選ばれました。

天草地方には、もと小西行長の家来で今は侍を辞めて、農民や猟師の仲間入りをしている浪人が大勢いました。

四郎も浪人の子で、小さいときから神童とうたわれ、人々からこの一揆の頭に相応しい者と見られたのです。

一揆は、たんだん大きくなり人々は荒れ果てていた原城に集座り立てこもりました。
その数は、45000人にもなったと言われます。

島原でも天草でも一投がおきたとき領主は留守でしたが騒ぎを知ると大騒ぎになりました。
幕府も驚いて、九州はもちろん、ほうぼうの軍を繰り出し、その数は、21万人以上にもなりました。

農民たちは、耜や鍬、それにわずかな鉄砲などを持っているにすぎませんでしたが死にものぐるいで戦ったため幕府方は、三倍もの兵隊を持ちながらたいへんな苦戦をしました。

そこで、幕府の軍は、原城を兵糧攻め(食料を運ぶ道を塞いで兵力な弱める方法)にしました。
このため、あくる年の三月末、一揆がおこってから五ヶ月目にやっと原城は攻め落とされました。

一揆方は、ほとんど全員戦死し生き残った者も全て殺されて、一投は解決しました。

絵踏みとは?

島原の乱はキリスト教の信者が集まって一揆をおこしたのではなく年貢の苦しみに耐えかねた農民や猟師たちが、切羽詰って一揆をおこしたのです。

ただ、その大部分の人たちが信者だったために、信仰の力で、たいへん、根強かったというわけです。
しかし、幕府の人たちはそのようには考えず、ただキリスト教は恐ろしいものだと思いこんでしまいました。

そして、どんなにしてでも信者を根絶やしにしようとしました。
その1つに、絵踏みがありました。

これは、信者が大切に思うキリストやマリアの御影を足で踏ませてみることです。
もし、本当の信者ならそんな大それたことはできません。

そこで、すぐ信者かどうか見つけ出せるというわけです。
この絵踏みは主に九州地方で行われ後に、年中行事のようになってしまいました。

「踏み絵」というのはこの絵踏みに使うしんちゅうの絵版のことです。



関連記事